アントワーヌ・ヴァトー

「シテール島」1709‐10年

「シテール島への巡礼」(雅な宴)1717年

「シテール島への船出」1718‐19年

ロココというバロックから続く美術様式があります。

 

18世紀のルイ15世のフランス宮廷から始まり、ヨーロッパに流行した様式です。

 

大規模で重厚なバロック建築よりは、小規模なサロンを好む繊細な趣味が基調にありますが、独自の様式というより、バロック建築の一変形とも考えられます。

 

ロココ建築は、バロック時代と比べると内装の装飾に新しい変化が見られます。

 

室内の壁やドアの隅に設置される流線的で不規則に湾曲した非対称形の抽象彫刻です。

 

また、色彩も、白地に金の装飾に、水色や、ピンク、杏色、肌色など淡いパステル調のものが多くなり、リボンや花の飾りなどが施されるようになります。

 

一般人が、ロココというと一番最初に思い浮かべるのが、白地に薔薇の模様かもしれません。

 

工芸品の中でロココ様式の影響を最も受けたものは陶器類です。

 

17世紀のヨーロッパでは綺麗なお皿は無く、中国や日本の磁器は「白い黄金」と呼ばれ、金や宝石と並んで王侯貴族の宮殿や、大邸宅に飾られました。

 

中でも伊万里や、花鳥風月を描いた柿右衛門の色絵磁器はヨーロッパでセンセーションを巻き起こし、ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿、ロンドンのハンプトンコート宮殿、そしてバッキンガム宮殿など、ヨーロッパ各地の宮殿に飾られました。

 

ドイツのバロック建築の傑作と言われるツヴインガー宮殿のフリードリッヒ・アウグスト2世は、柿右衛門の「竹に虎」の文様の大ファンで、数万点の東洋磁器で埋め尽くされた「磁器の間」と呼ばれる部屋を作ります。

 

このアウグスト2世が、国家の最優先事業として、東洋のような綺麗な磁器を作ることを目指し、「マイセン」というブランドの基礎が出来上がります。


私は、日本がヨーロッパの芸術に与えた影響は図りしれず、ロココの基調の「白」は、日本の「お皿」への憧れではないかと思っています。

 

そういう意味で、それ以降のヨーロッパの陶器には、ロココの趣味が凝縮します。

 

絵画の世界では、歴史画や宗教画が多かったバロックに対して、ロココは男女の愛の駆け引きを主題にした風俗画が目立つ様になります。

 

ロココを代表する画家として、「アントワーヌ・ヴァトー」、「フランソワ・ブーシェ」、「ジャン・オノレ・フラゴナール」などがいます。

 

結婚式で、花嫁は裾の長いウエディングドレスを着ますが、裾の長いドレスを「ワトートレーン」と呼びます。

 

トレーンは、列車のトレインの事で、ドレスを引きずる様子が列車のようだとされる事から付いた名前だそうです。

 

ワトーとは「アントワーヌ・ヴァトー」のヴァトーから取られています。

 

彼が、ロココ様式の装飾的な女性の衣装をよく描き、フランス式のドレスが彼の絵画の中によく登場するからだと言われます。

 

当時の貴族は、ドレスの裾が長ければ長いほど、高貴な身分を表したと言われます。

 

根拠はありませんが、このワトートレーンも、私は源氏物語の絵巻物に見られる日本の呉服の影響で、異文化に対する憧れから来たものではないかと想像します。

 

日本が舶来品として西洋に憧れたように、ヨーロッパの貴族達にとって、従来の文化、芸術と違ったものを持つことがステータスになったのではないでしょうか。

 

日本がアジアの国々の中で、西洋人にとつて特別な存在だったのは、文化や芸術への尊敬の念が働いているように思います。

ヴァトーは、ベルギー国境に近いフランス北部のヴァランシエンヌに生まれます。

 

この時代、美術の中心地はアントワープであり、約1200点という膨大な作品を残したルーベンスが「王の画家にして画家の王」と呼ばれ、圧倒的な影響力を持っていました。

 

ヴァトーは、ルーベンスの晩年を代表する風俗画「愛の庭」に強い影響を受けたと言われます。

 

「シテール島への船出」は、ヴァトーが友人の製造業者で美術収集家のジャンジュリエンヌのために描いた「シテール島への巡礼」のレプリカだとされます。

 

構図はどちらもよく似ているのですが、右側に描かれている白い像が「シテール島への船出」の方がよりはっきりと分かりやすいのと、天使や、男女のカップルの数も多くなっていて、私はこちらの絵の方が好みです。

 

「シテール島への巡礼」は彼がフランス王立アカデミーに入会する為に出品した作品で、これによって、「フェート・ギャラント」(雅な宴)という新しいジャンルを確立したとして入会を許されます。

 

雅な男女が庭園に集い、音楽や恋愛、娯楽を楽しむ風俗を主題とする絵画のジャンルです。

 

絵の舞台となったシテール島は、ギリシャ語ではキティラ島と呼ばれ、ペロポネソス半島の南に位置し、エーゲ海の出口に当たる島の一つで、へラディック期だと考えられる古代遺跡があることから、住民達がエジプトやメソポタミアと交易をしていた証拠とされています。

 

アルカイック期の初めには、フェニキア人が植民都市を築いた島で、ギリシャ神話の愛と美の女神アプロディーテー(ヴィーナス)が誕生した島として知られます。

アプロディーテーは、天空神ウラノスの男根の泡から生まれたとされます。

 

ギリシャ神話によると、自母神ガイアと天空ウラノスはたくさんの巨人族(タイタン)を生んだのですが、その子供達が醜かったので、ウラノスは地獄の底にその子供達を閉じ込めます。

 

それに怒ったガイアが末っ子のクロノスに鎌を持たせ、ウラノスの男根を切り取って海に捨てたというものです。

 

ウラノスは、ギリシャの神々がギリシャにやって来る前の先住民を表しているようで、その娘であるアプロディーテーは、先住民の信仰した女神だというわけです。

 

クロノスはケルト人の信仰したケルヌンノスという牡鹿の神様だと言われ、ケルト人が敵の首を門に飾る風習があったとされる事から日本の素戔嗚尊に当たるようです。

 

そして、クロノスの子供とされるゼウスは、アルメニア方面から黒海北岸を経てバルカン半島に侵入したアーリア人を表すようで、ケルト文明のクロノス(鹿)をアーリア人(牛)が征服した事を象徴するのかもしれません。

 

ギリシャ神話は、征服した側の神話なので、そこには異国の女神に対する悪意があるように思います。

 

アプロディーテーは、「性」にみだらという「マグダラのマリア」とイメージが重なります。

 

男根を切り落とされるウラノスは、エジプト神話のオシリスであり、アッカド人の信仰した蛇の神様だとされ、日本の大物主命に当たるようです。

 

イギリスに残っているストーンヘンジなどの巨石の遺跡から、それらを軽々と運べる巨人の存在を想像したのかもしれません。

 

ケルト人の信仰した神々は、キリスト教の布教と共に「妖精」や、「小人」へと姿を変えることとなり、少彦名命と姿を変える素戔嗚尊と同じ運命を辿ります。


フェニキア人について

 

「シテール島の船出」の白い像は、アプロディーテーの像で、その足にしがみついている子供が彼女の子供だとされるエロス(キューピッド)の像です。

 

エロスが恋愛を成就させる力があると信じられている事から、あちらこちらに描かれている天使は、このエロスだというわけです。

 

この「シテール島の巡礼」は、行く前なのか、帰って来たところなのかが議論される事があるようですが、私が思うのは、「シテール島」が行く前(過去)、「シテール島の巡礼」が着いた所(現在)、「シテール島の船出」が帰る所(未来)ではないかと…

 

カップルの多さや、微妙な違いが、アプロディーテーの島に行く事で変化しているという事です。

 

バロックが男性的な様式だとすると、ロココは女性的な甘美な様式だと言えます。

 

「愛」というテーマも女性が好むテーマです。

 

貴族達のお洒落で優雅な芸術は、聖母マリアではなくアプロディーテーで、イエス・キリストではなくエロスで「愛」を表現したものなのかもしれません。

 

しかし、ロココに象徴される貴族の時代は、次のフランス革命で終りを迎えます。

この写真は、見るからにロココ建築です。

 

可愛らしさがあふれています。

 

「印象派の音楽」と称されるフランスの作曲家クロード・ドビュッシーが作曲した「喜びの島」という曲があります。

 

ヴァトーの「シテール島への巡礼」から着想を得たとされます。

 

どういう曲なんだろうと、そちらの方に興味を持たれる方もおられると思いますので、YouTubeの動画を紹介しておきます。

 

この曲も、軽快なリズムの中に、何処か危なっかしい胸騒ぎを覚えます。

 

音楽的にはリディア旋法という音階で演奏されます。

 

恋愛に危険はつきものという事でしょうか。