丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)

和歌山県にある丹生都比売神社にやって来ました。

社宝として国宝を含む多くの重要文化財を所有し、境内の諸建造物もほとんどが文化財に指定されているという神社になります。

境内が国の史跡に指定され、世界文化遺産にも登録されています。

全国に丹生神社は八十八社あるとされ、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、この神社は、その総本社となります。

丹生都比売大神の別名は稚日女命(わかひるめのみこと)と言い、朱の原料となる辰砂(しんしゃ)の女神でもあり、鳳凰を表す「朱の鳥居」はこの女神のシンボルと言えます。

和歌山県の「和歌」(わか)は素戔嗚尊(すさのおのみこと)が「和歌」の神様とされる事から付いた地名ですが、稚日女命の「稚」(わか)と同じ「若」(わか)いという意味があり、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の「郎」(いらつ)と同じ意味になります。

日本人男性に最も多い名前とされる「山田太郎」は、「八岐(やまた)が太(うず)の郎(始まり)」という意味になります。

「八岐」(やまた)は、天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた八人の神様で、秦氏は「八幡」(やわた)に、蘇我氏は「八雲」(やぐも)にそれぞれ八分割され、女系のみ八人の氏族に嫁ぐ形で吸収されていったようです。

「八幡八雲」(はちまんやぐも)を引き継いだ「八王子」が、皇室を象徴する「十六八重」(じゅうろくやえ)の菊花紋となったようです。

森林の多い和歌山県は「木の国」(きのくに)という意味で、「紀伊国」(きいのくに)と呼ばれ、熊野(くまの)は牟婁(むろ)とも呼ばれていました。

 

現在の三重県熊野市にある二木島(にぎしま)の牟婁崎(むろざき)は、神武天皇が日本にたどり着いた最初の土地だと言われ、神武天皇は四兄弟の末っ子で、彦五瀬命(物部氏)、稲飯命(蘇我氏)、三毛入野命(秦氏)という三人の兄がいて、東征の際に海に漂流して亡くなった稲飯命(いなひのみこと)が阿古師神社(あこしじんじゃ)に、三毛入野命(みけいりののみこと)は牟婁神社(むろじんじゃ)に祀られる事になります。

 

宮崎の高千穂神社の伝承では、三毛入野命は死んだのではなく、逸れてしまって、出発地の高千穂に戻り、この地を治めたとされます。

 

「阿古」(あこ)は現在の「伊勢」(いせ)の事で、「阿古師」(あこし)は、おそらく「阿」(あ)は、「熊」という意味の「素戔嗚尊」(蘇我氏)を象徴するので、「阿古」(あこ)は推古天皇を象徴する「熊の子」という意味か、「古い熊」という意味が含まれているものと思われます。

 

蘇我氏が滅亡した後は、大伴氏が稲飯命を引き継ぎ、「新しい熊」が、「大物主命(物部氏)と習合した素戔嗚尊」だと思われ、「素戔嗚尊」が「速玉之男」(はやたまのを)と名前を変え、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)で祀られています。

 

三毛入野命の出身である推古天皇は游木(ゆき)=由來(ゆき)とも言い、「安芸(あき)の刀」の意味がある秋刀魚(さんま)で表されたりもします。

 

秋刀魚が三文字なのは宗像三女神の「三つ巴」で蘇我馬子(素戔嗚尊)の娘である「三馬」(さんま)を象徴しているようです。

 

「紀伊」(きい)や、「伊勢」(いせ)の「伊」(い)は「猪」(い)の意味で、「推古天皇の国」という意味も含まれているようです。

 

真珠が採れるアコヤ貝を象徴する「阿古耶姫」(あこやひめ)という人物がいますが、おそらく、「阿古の耶(矢)」という意味で、吉祥天(推古天皇)に代わって天照大神となった弁財天(皇極天皇)を象徴し、八分割された蘇我氏と秦氏の「矢」(八)を象徴するようです。

 

東北地方に伝わる「阿古耶姫と松」の話が有名で、「松」は、人々の架け橋となった物部氏(大国主命)を演じる蘇我倉山田石川麻呂(大己貴命)を表すようです。

 

蘇我倉山田石川麻呂について

高野山(こうやさん)は丹生都比売大神の山で、狩場明神(かりばみょうじん)の導きで空海が丹生都比売大神から借り受けた山だとされます。

看板の右上に小さく書かれている九度山(くどやま)と高野山の中間に位置する「二ッ鳥居」と呼ばれる鳥居があります。

久度山は名前からして、おそらく、久度神(くどのかみ)という竈の神で、蘇我倉山田石川麻呂と皇極天皇の二人を意味しているようです。

車で近くまで行こうと思いましたが、道が細く、徒歩で登らないと行けそうになかったので、時間の関係もあり、今回は行くのを諦めました。

ネットで画像が載っていたので、下に紹介しておきます。

この鳥居は、元は木で出来ていたそうですが、現在は石の鳥居のようです。

丹生都比売神社では「赤」の丹生都比売大神(丹生明神)と、「白」の高野御子大神(たかのみこのおおかみ)(狩場明神)の二神が祀られていて、「二ッ鳥居」は、この二神を表わしているようです。

丹生明神(にうみょうじん)が闇龗神(くらおかみのかみ)で、「闇」(くら)は「黒」(くろ)という意味と、大蔵、内蔵、斎蔵の屯倉(三倉)の「蔵」(くら)を表し秦氏の「推古天皇」(すいこてんのう)を意味していましたが、蘇我氏と結び付いて物部守屋を滅ぼした為に、蘇我氏が滅んでからは、蘇我氏の系図に組み込まれ、蘇我氏は出雲を象徴する神産巣日神(かみむすびのかみ)となり、高句麗系の「赤」から「黒」に変わったようです。

大友皇子(おおとものみこ)を象徴する武烈天皇(ぶれつてんのう)の命令で大伴金村(おおともかねむら)が平城山(ならやま)に追い詰めて殺害したとされる平群鮪(へぐりのしび)は、刺身が「赤」から「黒」に変色する「鮪」(まぐろ)の事であり、天武天皇(てんむてんのう)の孫の「長屋王」(ながやおう)を意味するようです。

 

狩場明神(かりばみょうじん)が高龗神(たかおかみのかみ)で、「高」(たか)は皇祖神の高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の「高」(たか)で、平家の祖である桓武天皇(かんむてんのう)の母であり、百済系の「高野新笠」(たかのにいがさ)を意味し「白」を象徴します。

平家は元々は「白」でしたが天照大神の推古天皇の「赤」に憧れて「赤」をシンボルとするようになりますが、この時点では「白」のようです。

平家が「赤」に憧れる事を表したものが花札(はなふだ)の牡丹(ぼたん)に近づく蝶の絵柄になります。

しかし、源氏に夕日の沈む「西」の壇ノ浦(だんのうら)に追い詰められ、入水する形で滅亡し、推古天皇と同じような運命を辿ってしまいます。

 

空海を導いた狩場明神が「白」と「黒」の山犬を引き連れていたという逸話は、この二神を象徴しているようです。

「白」は晴天の雲で、「黒」は雨雲だというわけです。

こちらは、この神社で買ったおみくじで、犬の容器になっています。

「白」と「黒」の2種類の犬がありました。

狩場明神の使いの犬をあらわしているようです。

やはり、買う時には縁起の良さそうな「白」を選んでしまいます。

この太鼓橋(たいこばし)は、住吉大社の太鼓橋と同じく淀君(よどぎみ)が寄進したものだそうです。

淀君は近江浅井氏(おうみあざいし)の出身で、推古天皇の血筋だと思われます。

狩場明神の犬が「白」と「黒」の色ですが、「白」はおそらく紀州犬(きしゅういぬ)を表す豊受大神の事だと思われます。

猪狩りに使用された猟犬で、この土地を代表する犬です。

では「黒」は?

普通は甲斐犬(かいけん)を思い浮かべます。

甲斐は馬の産地でもあり「八咫烏」(やたがらす)と呼ばれる聖徳太子の馬も「甲斐の黒駒」(かいのくろこま)と言われます。

甲斐は犬も、馬も、「黒」が多いようです。

甲斐は現在の山梨県になり、桃の日本一の生産量を誇る県で、黄色い「黄金桃」(おうごんとう)が有名ですが、「山があっても山なし県」と言われるように山に囲まれた盆地になります。

「山」がないなら、何があるのでしょうか?

答えは「海」です。

桃以外に「海」のない山梨県の名産品に醤油で煮込まれ黄色くなった「鮑の煮貝」(あわびのにがい)があります。

「甲斐」(かい)は蘇我氏の象徴の「貝」(かい)を表すようです。

甲斐の武田信玄が鮑を好んだからと言われますが、理由はこれだけではないようです。

甲斐国造は開化天皇の皇孫の狭穂彦王(さほびこおう)を祖とする日下部連(くさかべのむらじ)だとされます。

私は、狭穂彦王(さほびこおう)は天武天皇(てんむてんのう)の別名だと思っているので、甲斐は「赤」を好んだ天武天皇の氏族が造った国だと思われます。

 

天武天皇は平群鮪の父親の平群真鳥(へぐりのまとり)を表していて、鳳凰(ほうおう)であり、毘沙門天(びしゃもんてん)で佐保山(さほやま)を意味していましたが、平城山(ならやま)で均されて、「岡」(おか)になってしまい、天武天皇は黄色い鶏肉(カシワ)にされてしまいます。

 

「黒」を象徴する聖徳太子は、実在した人物ではなく、天武天皇の影のような存在だと思います。

天武天皇は大海人皇子(おおあまのみこ)と呼ばれ、凡海(おおあま)氏に育てられた海人族(あまぞく)の皇子です。

海人族は海の幸の食文化を持っていたので、それが「鮑の煮貝」に繋がったのだと思います。

「鮑」はミミガイ科の貝で、千葉を代表する海産品で、平城京跡から出土した木簡には「安房」(あわ)や、「鰒」(あわび)の文字が書かれている事から、奈良時代に大量の干し鮑が房総半島から送られていたことが推測されます。

房総半島にある安房神社(あわじんじゃ)の井戸(洞窟遺跡)には忌部氏の骨が出土し、忌部塚と呼ばれます。

「鮑」は素戔嗚尊(すさのおみこと)を象徴する「阿波の日」(あわのひ)という意味なのかもしれません。

伊勢神宮では6月と12月の月次祭(つきなみさい)と10月の神嘗祭(かんなめさい)に熨斗鮑(のしあわび)が天照大神に奉納されます。

殺生を嫌う仏教の精進料理(しょうじんりょうり)では生臭物(なまぐさもの)は禁じられていますが、贈答品においては精進ではないことを示す為に、生臭物の代表として熨斗(のし)が添えられるようになったとされます。

この熨斗鮑は、三重県鳥羽市国崎町の神宮御料鰒調製所で調製されます。

国崎(くざき)は「九を裂(さ)く」という意味で、秦氏の九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)=推古天皇(すいこてんのう)を象徴する久米氏(くめし)を表すようです。

大化3年(647)に但馬国(たじまこく)に攻め寄せた新羅の軍船を迎え撃った日下部表米(くさかべのうわよね)は船が沈没しそうになった時に大量の「鮑」が浮き上がり、船を支えたという伝承があり、兵庫県朝来市の赤淵神社(あかぶちじんじゃ)には、日下部氏(くさかべし)を助けた「鮑」が祀られ、日下部氏の子孫は決して「鮑」を口にしなくなったと言われます。

天武天皇は蘇我氏の鳳凰(ほうおう)の「赤」を象徴する最後の天皇で、日下部氏の祖だと言われるので、阿波日(あわび)は天武天皇のことも示唆しているようです。

こちらは金の成る木と書かれたお守りで、後ろの台紙に「お金のたまる法」と書かれています。

1.  神仏を崇拝する心を持つこと

2.  祖先を敬う心を持つこと

3.  家族仲が良いこと

4.  健康に心がけること

5.  お金や物を大切にすること

6.  収入以下で生活すること

7.  仕事を趣味とすること

8.  一事をつらぬくこと

9.  一攫千金を当てにしないこと

10. 感謝の生活をすること

木には五つの鈴が付いています。

高句麗を表す五十鈴(いすず)のようです。

「五」は、本来は素戔嗚尊の数字で、「十」が天照大神の数字となりますが、「五十」(いそ)=磯(いそ)となると、大物主命を表す数字になるようです。

神武天皇の皇后となった物部氏の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を象徴するものと思われます。

日本で二番目に多い姓は鈴木(すずき)とされます。

八咫烏(やたがらす)の末裔を称する物部氏系の穂積氏(ほづみし)が有名ですが、秦氏や蘇我氏の末裔が多いようです。

668年に高句麗が滅亡すると、1799人の遺民を受け入れ武蔵国(現在の埼玉県)高麗郡に置いたと続日本紀に記されています。

平安時代に編纂された日本後紀によると、信濃国の高句麗王族の卦婁真老(けるのまおい)は須々岐(すすき)の姓を与えられたとして、ここから鈴木へと変わっていった氏族もあるようです。

須々岐は「薄」(すすき)とも書かれ、別名を「尾花」(おばな)と呼びます。

物部氏の尾となった秦氏を意味し、愛知県の竹島弁天と呼ばれる八尾富神社(やおとみじんじゃ)など、八大龍王弁財天(はちだいりゅうおうべんざいてん)の異名があり、大伴氏を表す皇極天皇(こうぎょくてんのう)を表します。

皇極天皇は富士山に祀られる浅間神社(せんげんじんじゃ)の桜の女神、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を象徴しますが、山梨県と静岡県に挟まれています。

静岡県は「岡」=「尾花」(おか)になって「静」かになった「秦氏」を意味し、元々は「賤機山」(しずはたやま)という山が語源になったようで、賤(いや)しい機織り(はたおり)の民と「秦氏」を捉えていたようです。

今は「茶」の生産地として有名です。

皇極天皇(富士山)は、「山梨県」(蘇我氏)と「静岡県」(秦氏)の両方の顔があるようです。

 

「磯の鮑の片思い」と言われるように、鮑は片方しか貝殻がなく、もう片方は岩(蘇我倉山田石川麻呂)になるので、秦氏と蘇我氏が一つだという事のようです。

承元二年(1208)に第3殿の大食都比売大神(おおげつひめおおかみ)と第4殿の市杵島比売大神(いちきしまひめおおかみ)が行勝上人によって勧請され、現在の四社形態となったとされます。

 

第3殿の大食都比売大神(おおげつひめおおかみ)は穀物神で、「古事記」では素戔嗚尊(すさのおのみこと)に、「日本書紀」では月読命(つくよみのみこと)に剣で切られ、その亡骸の頭から蚕、目から稲、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生まれたとされる女神です。

「大食都」(おおげつ)は「大月」(おおげつ)で大きい月を表し、丹生都比売大神(にうつひめおおかみ)の別名と思われます。

推古天皇の事であり、天岩戸に隠れた元祖、天照大神です。

第2殿の高野御子大神(たかのみこおおかみ)=倉稲魂神(うかのみたまのかみ)=豊受大神(とようけのおおかみ)とは姉妹なので、この二神は混同されやすいようです。

 

第4殿の市杵島比売大神(いちきしまひめおおかみ)の方は、神功皇后(じんぐうこうごう)を象徴する女神で、神功皇后が、彦坐王(ひこいますのみこ)と袁祁都比売命 (おけつひめのみこと)の子孫だという事から、「袁祁都」(おけつ)は「小月」(おけつ)で小さい月の弓張月(ゆみはりづき)を表すようです。

皇極天皇の事であり、天岩戸から出て来た二代目、天照大神です。

彦坐王は、西漢氏の和邇氏(わにし)の祖で、東漢氏の物部氏が滅んだ後の漢氏の後継者です。

応神天皇(おうじんてんのう)は、和邇氏の彦坐王を神格化した天皇のようです。

修験道(しゅげんどう)の蔵王権現(ざおうごんげん)は、「青龍」(せいりゅう)の「青」を象徴する彦坐王を神格化した神様なのかもしれません。

 

同じく、彦坐王が春日氏の出身である沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)に産ませた子供が、日下部氏の祖の狭穂彦王(さほひこのみこ)と、狭穂姫命(さほひめのみこと)になります。

狭穂姫命(さほひめのみこと)は天智天皇の娘の持統天皇(じとうてんのう)の別名だと思われます。

上賀茂神社の賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を象徴する天皇でしたが、天武天皇と一緒になる事を望んで火葬された天皇になります。

源氏物語の火葬された葵の上(あおいのうえ)のモデルであり、青い頭の鴨の女神と言えます。

 

秦の始皇帝の時代に、中国の北方に存在した遊牧民族の国の大月氏と、そこから分かれた小月氏が、関係している可能性も考えられます。

大月氏は、中央アジアのソグディアナを拠点として、現在のウイグル自治区に当たるタリム盆地で、翡翠の生産に関わっていた民族で、玉氏とも呼ばれていました。

この神社の神紋は、三つ巴紋のようです。

古事記の国生みの記述において、阿波国の大食都比売大神(おおげつひめおおかみ)と伊予国の市杵島比売大神(いちきしまひめおおかみ)は伊予之二名島(いよのふたなのしま)と言われ、セットにされます。

大食都比売大神(おおげつひめおおかみ)が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を象徴する阿波火(あわび)の「吉祥天」(きっしょうてん)です。

市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)が蛭子神(ひるこのかみ)を象徴する阿波水(あわみ)の「弁才天」(べんざいてん)です。

 

火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)は大国主命を、蛭子神(ひるこのかみ)は大物主命を象徴する神様で、蘇我氏と物部氏が荒神(こうじん)として一つになる前は、「火」(太陽)は蘇我氏を、「水」(月)は物部氏を象徴していたようです。

 

秦氏を象徴する伊邪那美命(いざなみのみこと)は「火」によって亡くなります。

 

物部氏を象徴する伊邪那岐は(いざなぎのみこと)は「水」と「塩」の海水で禊をして、天照大神、月読命、素戔嗚尊の三貴神を生み出します。

 

「塩」は塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)で藤原鎌足(ふじわらのかまたり)を表します。

塩土老翁神の話

 

阿波水(あわみ)は淡海(おうみ)と書かれ、弁才天の琵琶湖を表し、「鶴」がシンボルである藤原不比等には、死後、760年(天平宝宇4)に淡海公(たんかいこう)の諡号(しごう)が贈られます。

 

淡海は「塩」が入っていない事を表しているようです。

「塩」が入っていない理由

通常、神社は太陽の光が差し込むように南向きか東向きに作られることが多くなります。

只、立地条件によっては、仕方なく西向きや、北向きになることもありますが、数は圧倒的に少なくなります。

この丹生都比売神社は、その少数の「北」向きの神社になります。

丹生官省符神社(にゅうかんしょうぶじんじゃ)、丹生酒殿神社(にゅうさかどのじんじゃ)・丹生都比売神社(にゅうつひめじんじゃ)の三社ともが「北」を向いています。

これは、ただの偶然ではなさそうです。

通常、「南」を向く神社の場合、参拝者は「北」を拝む形になります。

「北」は玄武(げんぶ)の「黒」の方角です。

しかし、神社が北を向くというのは、参拝者が「南」を拝む形になります。

鳳凰(ほうおう)の「赤」の方角で、玄武(げんぶ)にはお尻を向ける形になります。

丹生都比売大神自身が太陽そのものなので、太陽の方角を向かなくてもいいという事なのか、或いは丹生都比売大神が「赤」の鳳凰(ほうおう)ではなく、「黒」の玄武だという事を象徴しているのか、どちらかのような気がします。

玄武(げんぶ)の「黒」は太陽の沈んだ「晩」(ばん)を表し、鳳凰(ほうおう)の「赤」は太陽が昇る「夜明け」をあらわします。

また、玄武は「亀」を表し、鳳凰は「鶴」を表します。

籠目(かごめ)は高野御子大神(たかのみこのおおかみ)の別名である豊受大神の元伊勢と呼ばれる籠神社(このじんじゃ)の目を表し、夏王朝(かおうちょう)の末裔である秦氏の「夏(か)の米(こめ)」という意味になります。

後ろの正面は、「北」と「南」がひっくり返った事を表すようです。

円の中に閉じ込められて目を隠された鬼がいつか飛び立つ「籠の中の鳥」というわけです。

目を隠された鬼とは、玄武の色の「黒」に変わった「八咫烏」(やたがらす)の事で、本来は、この鳥が「赤」の鳳凰でしたが、その地位を藤原氏の「鶴」に奪われてしまいます。

一般的に「亀」は「六芒星」、「鶴」は「五芒星」と言われています。

「烏」(カラス)という漢字は「鳥」の目の部分が無い漢字で表され、稲という目を失った鳳凰を表します。

米を作るのに適さない信濃(しなの)という山間部に流され、米以外の農作物を作ることを強要された秦(しん)の末裔の秦氏(はたし)の事だと思われます。

秦氏(はたし)の読みは米以外の農作物を作る「畑」(はた)から取られたものと思われ、絹織物を象徴する機織(はたおり)の機(はた)も「畑」(はた)に合わせて後から付けられた読みだと思います。

「はた」には真ん中(目)ではない「端」(はし)の方という意味や、川に架かる「橋」(はし)という意味があり、牛を象徴する「土師」(はじ)は、その後継者という意味のようです。

玄武の「黒」は縄文時代の最古の「鏡」の「黒曜石」(こくようせき)を表しているようです。

月の天使ガブリエルからコーランを授かったイスラム教のメッカのカアバ神殿にも月の石とされる「黒曜石」が埋め込まれていて、太陽を映す「鏡」である「月」はイスラム教のシンボルでもあります。

「鏡」とは左右が反転しているように見えますが、幾何学的には前後の奥行きが反転していて、「後ろの正面だあれ?」とは、「鏡に映した自分はだあれ?」という問いかけで、その答えは「他者」であり、「自分」であり、それらを包括した万物を表す「宇宙」を意味するものと私は思います。

「籠目紋」は、ユダヤ教では「ダビデの星」と呼ばれ「神のご加護」を表す「盾」という意味になります。

ギリシャ神話で蛇のメデューサの姿を映したアイギス(イージス)の「盾」を意味します。

 

結局、「鬼」は「自分」であり、「宇宙」(神)そのものです。

 

その事を教えてくれるのが「八咫烏」(やたがらす)の「八咫鏡」(やたのかがみ)になります。

狛犬です。

ルーツは高句麗の高麗(こま)だとされます。

門を守る聖獣で、阿(あ)・吽(うん)で一対になります。

魔を追い払う拒魔(こま)という意味だそうです。

本殿側から見て左の角がなく口を開けている方が「阿」(あ)で初代天皇の神武天皇を象徴し、本殿側から見て右の角があり口を閉めている方が、「吽」(ん)で蘇我氏の時代を終わらせた第50代天皇の桓武天皇を象徴し、50音では「を」に当たります。

「左」という漢字は「手」を表す「ナ」に「エ」という組み合わせになります。

「エ」は穴が開いている状態を表し、「右」の「ロ」は穴が閉じている状態を表します。

「友」という漢字の「又」は「エ」と「ロ」の両手が「握手」する象形で、阿・吽の揃った「狛犬」の事になります。

「蘇我氏」と「物部氏」を結びつける「大伴氏」(おおともし)を指すようです。

高句麗は蘇我氏と関係の深い国で、「狛犬」は元々は「犬」(大伴氏)ではなく、「麒麟」(きりん)を意味していたようです。

 

 

尋(千手観音)の話

 

「麒麟」(きりん)の話

こちらの本殿は四社とも、現存する最大の一間社春日造で、社殿の内部に宮殿があり、その中に御神体を納める形式は類例がないとされます。

本殿の左端に若宮(わかみや)という一つだけ横を向いている小さな社殿があります。

第三殿と第四殿を勧請した行勝上人(ぎょうしょうしょうにん)を祀ったものだとされます。

源頼朝(みなもとよりとも)と大進局(だいしんのつぼね)の子である貞暁(じょうぎょう)という人物が、出家して高野山にいたそうですが、建保7(1219)に貞暁の弟子の公暁(くぎょう)という人物が、北条政子(ほうじょうまさこ)の第4子の源実朝(みなもとのさねとも)を暗殺した事から、政子から野心を疑われ、行勝上人(ぎょうしょうしょうにん)に付き添われる形で政子と貞暁が対面し、4代将軍就任を打診されたと言われます。

しかし、貞暁は政子の打診を辞退し、それ以降、政子は高野山と丹生都比売神社に支援することとなり、この神社に「金銅の琵琶」が寄進されたそうです。

第三殿と、第四殿を勧請させたのも政子だという話しも存在します。

「金銅の琵琶」を模したお守りです。

こちらは、佐波神社(さわじんじゃ)です。

先ほどの若宮と同じように本殿に対して横を向いています。

明治時代に上天野地区の諸社を合祀るしたものと言われます。

佐波(さわ)は細い川を表す沢(さわ)のことで、古くは金切大明神(かなきりだいみょうじん)と呼ばれ、神紋は十六日足紋(じゅうろくひあしもん)だったようです。

金(かね)は大物主命を表し、切(きる)は殺すという意味です。

日足紋(ひあしもん)は太陽光線を足に例えた紋で、天皇家の象徴である菊紋の元になった紋です。

九州地方の武家が好んで使用した紋で、太陽神の末裔を意味します。

私は、金切大明神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の事だと思います。

こちらの佐波神社は出雲大社と同じ西向きの社です。

西は太陽の沈む方角で極楽浄土を表します。

母である伊邪那美(いざなみ)のいる方向を素戔嗚尊(すさのおのみこと)が向いているのかもしれません。

「西向く侍 小の月」

二月

四月

六月

九月

士月

この五つの月は31日より少ない30日で、2月だけ最も少なく28日か29日になり、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を象徴する五つの小さい月だということです。

こちらが十六日足紋(じゅうろくひあしもん)です。

延喜式(えんぎしき)に書かれた「谷ぐくのさ渡る極み」を表します。

足のあるカエルが這っていける全ての範囲を太陽が統治するという意味です。

「人」という字も、二本の「足」が強調された字です。

そして、足紋は、車紋でもあり、中心を軸として回転する独楽(こま)でもあり、群馬県の車持神社や、欽明天皇の時代に謀反を起こしたとされる高句麗系の車持氏(くらもちし)を象徴します。

丹生都比売大神を象徴する推古天皇の同族の猪名氏(忌部氏)の別名のようです。

海人族の阿毎氏(あまし)でもあり、砂糖の「甘」(あま)になります。

日本で一番多い姓が「佐藤」(さとう)です。

藤原秀郷(ふじわらひでさと)流の佐藤氏が有名で、「藤原氏を助ける」という意味ですが、藤原秀郷に退治されたといわれる足の多い百足(むかで)の化物が車持氏で、稲(目)を失った秦氏の子孫です。

藤原不比等は鏡王女が母ですが、鏡王女も車持氏と同じ氏族なので、狭穂姫の佐保山に代わって市杵島姫の春日山が春の女神を表す山となります。

2月は「丹(に)の月」で稲荷(いなり)の「荷」(に)を表します。

2月の初午の日が伏見稲荷大社のお祭りの日とされます。

日本では2月は「如月」(きさらぎ)と呼び、衣(きぬ)を更に着替えるという意味になります。

衣替えの季節を表したようです。

「更」(さら)は「白」という意味を含み、「赤」の着物から「白」の着物に着替えたという意味になります。

他に「梅見月」(むめみつき)という天神を象徴する「梅」(うめ)や、「木目月」(こめつき)という豊受大神を象徴する「米」(こめ)の別名もあります。

「如月」(きさらぎ)の「如」(にょ)は仏教では「真如」(しんにょ)と呼ばれ、同一である真実の姿を意味します。

「真如」(真理)によって悟りを開いた仏を「如来」(にょらい)と呼びますが、如来には、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来など様々な如来が存在し、宗派によって、崇拝する対象が変わります。

高野山の空海が唐より持ち帰った密教では、無色界の頂点におられるのが大日如来(だいにちにょらい)だとし、大日如来は太陽神、天照大神の別名だと思われます。

「二」は相対や対立を表す数字なのですが「真如」になると「一」という意味になります。

二つの「丹」が重なって「母」という漢字が出来ます。

丹生都比売大神は、高野御子大神と共に「二ッ鳥居」を表す日本の「母」という存在なのかもしれません。

大食都比売大神(おおげつひめおおかみ)の「目」から生まれた「稲」を象徴する土地は、丹後半島の伊根町ではないかと思います。

紀元前3世紀に秦の始皇帝の命令を受け、不老不死の仙薬を求めて徐福(じょふく)が上陸したという伝承があり、伊根町は徐福が稲を伝えた事から付けられた町名のようです。

この辺りは凡海郷(おおしあまのさと)と呼ばれる海人族の住む大きな島があったそうですが、大宝元年(701)に地震により海没して、丹後半島の先に冠島(かんむりじま)と沓島(くつじま)の二島だけが残ったそうです。

沓島は、さらに二つの小さな島に分かれていると言われます。

私は、この沓島が、鳳凰の目ではないかと思っています。

凡海郷の海没は、天武天皇と関係の深かった凡海氏(おおあまし)の没落を象徴しているようです。

冠島は、饒速日命(にぎはやひのみこと)の別名の天火明命(あめのほあかりのみこと)が祀られ、沓島には日子郎女神(ひこいらつめのかみ)が祀られていると言われます。

郎女(いらつめ)は若い女という意味で、丹生都比売(にうつひめ)の事だと思われます。

おそらく、この二島は敏達天皇と推古天皇を象徴しているのだと思います。

凡海氏が没落した後は、天火明命と、市杵島比売(いちきしまひめ)の子孫の海部氏(あまべし)が海人族(海幸彦)の長となるようです。

冠島は「甲」を象徴する市杵島比売で、沓島が瓢箪を象徴する「由」で、太陽の丹生都比売(にうつひめ)と月の高野御子(たかのみこ)の二神になります。

鳳凰の両目ということです。

沓は二足ないと意味がないように、どちらが欠けても駄目で、「二ッ鳥居」が象徴するものは「太陽」(火)と「月」(水)という事のようです。

沓(くつ)のお守りです。


可愛い下駄の形で、色も淡いピンクです。

 

泥にまみれながらも足を守っている沓は、どこか、母親の無償の愛に似ています。

 

「驕れる人も久しからず」

 

感謝の気持ちを忘れないようにしましょうと、丹生都比売大神が教えているような気がします。

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コメント: 5
  • #1

    たぬき (金曜日, 11 9月 2015 10:55)

    海をハタとも読みました。

    日子郎女神/市杵島日女命/道主貴/佐手依日女命。
    この日女命さまは海部氏勘注系図では
    彦火明命の別后となっています。
    正后は大己貴命と多岐津媛命(高津媛命。神屋楯日女命)の女の
    天道日女命。高光日女命。屋乎止女(ヤオトメ)。下照媛。

    記紀では下照媛の婿さんは天稚彦(天若彦)。
    となれば、彦火明=天稚彦。
    ワカは彦火明命をさしワカの付く地名等は彦火明命に由縁

    ワカサは天火火出見命に由縁ですが、天火火出見命はまた、彦火明命/天火明命の事。

    また、神武天皇の諡号は複数の一書に曰く。にホホデミの命と伝わります

  • #2

    たぬき (金曜日, 11 9月 2015 10:57)

    あと、
    群馬は古代にはクルマと呼び習わしていました。

  • #3

    やっしー (土曜日, 12 9月 2015 23:04)

    私は天稚彦はスサノオ(蘇我氏)を象徴していて、彦火明は大物主(物部氏)を象徴していて本来は別々の人物なのですが、統合されたものだと思います。

    私の推測ですが、記紀で出てくる下照媛は、光明皇后の異父姉で、推古天皇の血を引く牟漏女王がモデルであり、その夫の藤原房前は、藤原北家(玄武)の祖で母が蘇我昌子であり、スサノオの子孫なので、こういった神話を作ったのではないかと思います。

    牟漏女王(むろのおおきみ)の牟漏(むろ)は、「室生寺」(むろうじ)の「室」(むろ)や、木花開耶姫がお腹に宿った子供を、ニニギノミコト(蘇我氏)に、ニギハヤヒノミコト(物部氏)の子供ではないかと疑われて、身の潔白を証明する為に小屋に火を放った「室の八島」の「室」(むろ)と同じ意味だと思います。

    天稚彦とそっくりだったと言われるアジスキタカヒコネは葛城の鴨氏(かもし)や、磯城氏(しきし)など秦氏系の氏族と関係がある人物ではないかという説もあるようです。

    大物主の妃となったヤマトトトヒモモソヒメは、磯城氏の出身だという説もあります。

    石上神宮(いそのかみじんぐう)の石上(いそのかみ)は、磯の神(いそのかみ)や五十の神(いそのかみ)という意味を含んでいるのかもしれません。

    本来、秦氏系の鴨氏は、三輪族(物部氏系)の賀茂氏が加わって、秦氏系と物部氏系の区別がつきにくくなっているようです。

    鴨居(上)、敷居(下)とあるように物部氏系と秦氏系の二つの似た系図があることを象徴しているのかもしれません。

  • #4

    やっしー (日曜日, 20 9月 2015 21:10)

    追伸

    牟漏女王は敏達天皇(物部氏系)と春日老女子(葛城氏系)の子である難波皇子(なにわのみこ)の血統で、橘氏の祖である栗隈王(くりくまのおおきみ)に繋がる家系ですが、難波皇子と栗隅王の間には、当麻勾君(蘇我氏)の祖とされる小俣王(おまたのみこ)が入るという説もあり、そう考えると、不老不死の実である「桃」を象徴するヤマトトトヒモモソヒメ(推古天皇)系の血を栗隅王が継承していて、橘姓を賜ったのではないかとも考えられます。
    真相は藪の中ですが…

  • #5

    秩父まほろば (日曜日, 17 1月 2016 19:50)

    はじめまして。
    東北の阿胡耶姫について調べていたところ、こちらのサイトに出会いました。とても興味深く読ませて頂きました。

    阿胡耶姫が伝わる千蔵山に、物部守屋を継承する石碑が見つかり、また松の精霊との恋話は、後に熊野修験が伝えたものだとわかりさた。が、大和?の西では、阿胡耶姫には姉の中将姫がおり、東北では妹の阿胡耶姫として姉妹伝承とれています。それがどういう意味かよくわかりません。新羅人の里にも阿胡耶姫伝承があり、秦氏や奥州藤原氏の姫神に変わっているようです。
    物部氏と深い関係がありそうで、興味がますます湧いてきました。