橘寺(たちばなでら)

今日は、聖徳太子の誕生地という伝承のある橘寺にやって来ました。

入口の門の前に、右近の橘と、左近の桜が植えられています。

橘の紋が刻まれた、こちらの馬は、聖徳太子が乗っていたとされる黒駒(くろこま)と呼ばれる馬です。

烏」(カラス)と書いて、駒(くろこま)とも書かれます。

「扶桑略記」(ふそうりゃくき)によると、聖徳太子が試乗すると、空を飛び、富士山の頂上まで飛んでいったという逸話もある空を駆ける馬です。

おそらく、この馬は、八咫烏(やたがらす)を表しているようです。

 

神武天皇(じんむてんのう)と呼ばれる日本で最初の天皇がいます。

八咫烏(やたがらす)に導かれて、熊野国から大和にやって来た人物です。

神武天皇は、日本書紀では、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と言い、「最初に国を治めた天皇」だとされます。

蘇我氏と関係の深い畝傍山の麓に橿原神宮を建て、蘇我氏を象徴する天皇です。

しかし、第10代に、崇神天皇(すじんてんのう)と呼ばれる天皇がいて、彼も、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれています。

崇神天皇(すじんてんのう)は、饒速日命(にぎはやひのみこと)=大物主命(おおものぬしのみこと)を神格化した天皇で、物部氏の天皇と言え、別々の二人の初代天皇が存在したことになります。

これは、蘇我氏の業績を、饒速日命(にぎはやひのみこと)の業績に統合する為に、故意に、同じ名称を用いたものだと私は思います。

聖徳太子は、この橘寺で生れたとされます。

当時、ここは欽明天皇(きんめいてんのう)の「橘の宮」と呼ばれる別宮だったとされます。

欽明天皇(きんめいてんのう)と、蘇我堅塩姫(そがのかたしおひめ)の子が、推古天皇(すいこてんのう)と用明天皇(ようめいてんのう)で、用明天皇は蘇我氏の血を引く最初に即位した天皇で、橘豊日命(たちばなとよひのみこと)という名前でした。

そして、用明天皇(ようめいてんのう)と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)との間に厩戸皇子(聖徳太子)は生まれたとされます。

厩戸皇子(うまやどおうじ)は、19歳で、推古天皇(すいこてんのう)の摂政となり、補佐を勤めたとされ、587年の丁未の乱(ていびのらん)で、物部守屋(もののべもりや)を滅ばした張本人であり、蘇我氏を象徴する皇子と言えます。

しかし、この橘寺の創建の話を見ると、疑問が生まれます。

聖徳太子は、敏達天皇元年(びだつてんのうがんねん)(572年)に、母妃が宮中の厩(馬屋)の前に来られた時に、お産みになり、厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれました。

それから、3年が経ち、敏達天皇3年3月の3才の時に、父君と母妃は太子をつれて公園で遊んでいたそうです。

その時、父君が「松の枝」と、「桃の花」を手にとって、「太子は、どちらが好きか?」と尋ねられたそうです。

その時の太子の答えが、「私は松が好きです」と言うもので、その理由を父君が問うと、「松は万年の間、枯れない木です」と答えたと言います。

 

私は、この話に違和感を覚えます。

何故なら、「桃」は蘇我氏を象徴する木で、「松」は物部氏を象徴する木だからです。

物部守屋を滅ばした聖徳太子なら、「桃」を選択するのが普通です。

また、3という数字も、「寅」を表す数字で、天武天皇を象徴する動物です。

蘇我氏の逸話を創作するのであれば、本来「酉」表す9のはずです。

それから、田道間守(たじまもり)が「橘」を持ち帰り、最初に植えたのが、このお寺だとされ、それが、この橘寺という名前の起源とされます。

道教の不老不死の果物の「桃」が、「橘」に変更され、蘇我氏の色が完全に消されてしまいます。

田道間守(たじまもり)とは、皇極天皇(こうぎょくてんのう)のモデルだと思われる神功皇后(じんぐうこうごう)と同じ天之日矛(あめのひぼこ)の子孫だとされ、「田の道の間=畔(ほとり)を守る人物」という意味で、但馬(たじま)に子孫が移り住んだ天武天皇を象徴する架空の人物ではないかと私は思います。

天武天皇は、皇極天皇の血を引いているので、蘇我氏と物部氏を重ね合わせるのに、とても都合の良い人物だからです。

聖徳太子の各地の伝承を調べると、不自然なものが数多くあります。

このような違和感から、聖徳太子の存在自体を疑う人もあり、聖徳太子がいなかったという説を唱える人もいます。

聖徳太子がいなかったとすると、物部氏は、いったい誰に滅ばされたのかということが問題になり、「日出処の天子」の国書を持たせ、遣隋使(けんずいし)を送って隋の煬帝(ようだい)を怒らせた人物は、聖徳太子ではなかったのかという疑問が生じます。

「隋書」(ずいしょ)と呼ばれる中国の歴史書の「東夷伝」(とういでん)に開皇二十年(600年)=推古8年、日本の王は姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしひこ)と書かれていて、聖徳太子の父親の用明天皇(ようめいてんのう)のことだと解釈されています。

しかし、敏達天皇が崩御して、推古天皇が即位するまでの用明天皇の在位は2年と短く、書紀に記載された推古天皇の年齢から逆算すると、即位していなかった可能性もあるのではないかと指摘されています。

そうなると、阿毎多利思北孤(あまたりしひこ)と呼ばれる男の王とは、いったい誰なのかという問題が改めて浮上します。

 

阿毎多利思北孤(あまたりしひこ)は、蘇我入鹿と同一人物だという説があります。

蘇我入鹿は、蘇我蝦夷(そがのえみし)の子で、蘇我馬子の孫とされていますが、蘇我入鹿が聖徳太子だと分りにくくする為に、この系図自体が嘘であり、創作ではないかという説です。

飛鳥には当時、蘇我馬子が建てた日本最古の仏教寺院の法興寺(ほうごうじ)と呼ばれるお寺がありました。

百済の第29代の王の法王(ほうおう)が百済に建てた王興寺(おうごうじ)と対になっていて、法と王で鳳凰(ほうおう)を表していました。

当時、百済は大国の高句麗と倭国に挟まれていて、倭国の属国に近い関係だったので、鳳(ほう)の方が日本になっていたようです。

この法興寺には、聖徳太子が師匠とした、高句麗の僧の恵慈(えじ)と、百済の僧の恵聡(えそう)が住んでいて、聖徳太子と共に「三宝の棟梁」(さんぽうのとうりょう)と呼ばれていました。

このお寺の初代、寺司(てらのつかさ)が蘇我馬子の長男の蘇我善徳(そがぜんとこ)という人物で、仏教に精通した彼こそが蘇我入鹿であり、聖徳太子の本名だという説です。

仁徳天皇(にんとくてんのう)と呼ばれる天皇がいます。

そのお墓は、大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)と呼ばれ、墓域面積は秦の始皇帝陵を凌ぎ、世界最大だとされます。

この古墳は前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)なのですが、前方部に「造り出し」と呼ばれる「耳」のような突起がついている珍しい形です。

私は、この大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)は、「耳」を象徴する聖徳太子のお墓で、仁徳天皇とは、蘇我善徳をモデルにした天皇ではないかと思います。

「善」を「仁」に変えてあるのは、応神天皇のモデルと思われる王仁吉師の「仁」を付けて、次の継体天皇(けいたいてんのう)の正当性を主張する為に、応神天皇の子供ということを強調したのだと思います。

大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)は、百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)とも呼ばれ、陵名の由来は、陵墓造営中に野から鹿が走り込んできて絶命し、その鹿の耳の中から百舌鳥(モズ)が現れたことから地名を「百舌鳥耳原」(もずのみみはら)と名づけたとされます。

鹿は任那(みまな)=伽耶国(かやこく)の葛城氏(かつらぎし)を表し、蘇我氏がそこから出て来たことを表しているのかもしれません。

百舌鳥(モズ)は鳥の中では珍しく、何のために行われるかは、よく分かっていませんが、秋になると捕らえた獲物を木の枝等に突き刺す習性があり、生け贄として奉げたという言い伝えから「モズのはやにえ(速贄)」とも呼ばれます。

蘇我氏が生贄を求めたということを表すために、鹿の耳の中から百舌鳥(モズ)が現われたという逸話が考え出されたのかもしれません。

生贄を求める鬼の話

百済(くだら)の王族で、第25代の武寧王(ぶねいおう)の子供とされる第26代の聖王(せいおう)という人物がいます。

日本に仏教を伝えたとされる人物です。

武寧王も、聖王も日本で生まれ育った百済の王族で、欽明天皇(きんめいてんのう)は聖王と、541年に任那(みまな)の復興について協議していましたが、554年(欽明天皇15年)新羅との戦いで聖王は戦死してしまい、それにより、新羅軍は勢いづき、562年に任那は滅ぼされてしまいます。

欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなり、554年に立太子させた渟中倉太珠敷皇子が敏達天皇(びだつてんのう)として即位します。

丁度、この時代に厩戸皇子(うまやどおうじ)は誕生したとされます。

聖徳太子という名前は、没後100年以上を経て、天平勝宝3年(751年)に編纂された「懐風藻」(かいふうそう)が初出とされるので、おそらく、厩戸皇子(うまやどおうじ)に、聖王のイメージが重ねられ、蘇我善徳は、蘇我入鹿として聖徳太子とは別人のように偽装されたというのが真相かもしれません。

こちらは、背中合わせに二つ顔が一つになった二面石と呼ばれる石です。

人間の善と悪の二面性を表していると石とされますが、まるで、聖徳太子と蘇我入鹿のようです。

物部氏と習合させられた蘇我氏という意味にも取れ、「桃より松が好き」と聖徳太子が答えるのも納得がいきます。

用明天皇(ようめいてんのう)の子の厩戸皇子(うまやどおうじ)が聖徳太子に選ばれた理由は、天武天皇の存在が大きいように思います。

書紀では、天武天皇は皇極天皇の子ということが強調されていて、用明天皇の子とされる高向王(たかむこのおう)の子という側面は隠されているように思います。

武内宿禰の子の蘇我石河宿禰(そがのいしかわすくね)という人物がいて、ここから、蘇我、川辺、田中、高向、小治田、桜井、岸田氏の七氏族に分れたとされます。

高向氏(たかむこし)は、三国志で有名な魏(ぎ)の曹操(そうそう)(武帝)の子の文帝の後裔とされ、応神天皇の時代に阿智王(あちおう)と共に渡来した七姓漢人(しちしょうかんじん)の一つとされ、東漢氏(やまとのあやし)の一族とされます。

阿智王が亡くなった後は、東漢氏(やまとのあやし)は蘇我氏の護衛という役目を持つようになり、王仁吉師(わにきし)を祖とする西漢氏(かわちのあやし)=和邇氏は、物部氏と結びつきます。

書紀に最初に現われる高向氏は、推古16年9月の遣唐使の学生で、聖徳太子が和邇氏の子孫の小野妹子(おののいもこ)と共に選んだとされる高向玄理(たかむこのくろまろ)です。

次に登場するのが、推古天皇が崩御した後、皇位継承者を決める会合で、田村皇子を推す大伴鯨連(おおとものくじらのむらじ)の意見に賛同する四臣として高向宇摩(たかむこのうま)が出て来ます。

息長氏(おきながし)の味方という立場です。

そして最後に、蘇我入鹿が聖徳太子の子の山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を襲撃して、生駒山に逃亡した山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を追討するように命じた高向国押(たかむこのくにおし)です。

その時に、高向国押(たかむこのくにおし)は、自分の役目は皇極天皇を守ることなので、外には出れないと蘇我入鹿の命令を拒否したとされ、ここでも息長氏の味方という立場が強調されます。

しかし、不思議なのは、追討を免れた山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が、何を思ったのか、また生駒山を下り、斑鳩寺(法隆寺)に入って自害したという点です。

普通に考えると不自然な行動なので、おそらく、高向国押(たかむこのくにおし)が、聖徳太子側の人間で、蘇我入鹿側の人間ではなかったと言いたかった為に無理に挿入した逸話なのかもしれません。

高向国押(たかむこのくにおし)は、蘇我入鹿が天智天皇に殺された直後、蘇我氏を護衛する役目にあった東漢氏(やまとのあやし)が、天智天皇に復讐することを、無意味であると諭して武装解除を促しています。

東漢氏を束ねる漢王という立場にあるようで、ここでも息長氏の味方ということが強調されています。

高向国押(たかむこのくにおし)とは、皇極天皇の子の漢皇子の別名で、天武天皇と同一人物ではないかと私は思います。

和邇氏(わにし)の祖は天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)と言いますが、天足彦(あまたらしひこ)とは蘇我入鹿の別名の阿毎多利思北孤(あまたりしひこ)を表し、国押人(くにおしひと)とは天武天皇の別名の高向国押(たかむこのくにおし)を表しているのではないかと思えます。

つまり、聖徳太子は、和邇氏(応神天皇)の系列で、蘇我入鹿と、天武天皇の二つの顔を持っているということです。

暗殺された崇峻天皇(すしゅんてんのう)の母で、聖徳太子の祖母になる蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)は、蘇我稲目の娘とされますが、これが本当の娘ではなく、養女か、あるいは嘘の系図で、無理にこの部分を繋いだのではないかという説もあります。

聖徳太子の母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は蘇我氏と物部氏の争乱を避けて丹後(たんご)に避難したとされます。

丹後は橘がシンボルの豊受大神の元伊勢のある国で、天火明命(あめのほあかりのみこと)と日子郎女神(ひこいらつめしん)を祖とする海部氏(あまべし)が社家とされます。

天火明命は、饒速日命(にぎはやひのみこと)の別名で、日子郎女神とは、市杵島姫(いちきしまひめ)の別名です。

そこへ避難したということは、彼女が海部氏(あまべし)の人間ではないかというわけです。

この説だと、物部守屋が蘇我小姉君の子の穴穂部皇子と結んだ理由も、蘇我馬子が崇峻天皇や穴穂部皇子など、同族でありながら滅ぼした理由も納得がいきます。

また、蘇我氏系の系図に聖徳太子を無理に繋いだ理由は、仏教を日本に伝えたのが聖徳太子だということにして、蘇我入鹿は、その子供の山背大兄王(やましろのおおえのおう)を滅ぼした悪役で、仏教とは無縁の人物だったと思わせるのが狙いです。

推測の域を出ない話ですが、とても面白い説だと思います。

それでは、橘寺はこれぐらいにして、車で場所を移ろうと思います。

こちらは、「鬼の雪隠」(おにのせっちん)と呼ばれる石です。

おそらく、破壊された蘇我氏系の古墳の一部だと思われます。

こちらは、「鬼の俎」(おにのまないた)と呼ばれる石です。

ここから、もう少し進みます。

天武・持統天皇陵です。

 

天武天皇は、真っ赤に燃える鳳凰(ほうおう)の天皇と言えます。

聖徳太子は、それを覆い隠すような存在かもしれません。

 

また、狭穂彦王(さほひこおう)も、私は天武天皇の異名だと思っているので、このお墓は、狭穂彦王(さほひこおう)を愛した狭穂姫(さほひめ)が眠るお墓でもあるわけです。

 高台にあって、とても景色の良い場所です。

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