室生寺(むろうじ)

女人高野(にょにんこうや)と呼ばれる室生寺にやって来ました。

高野山が女人禁制なのに対して女性の参詣が許されていたのでこのように呼ばれています。

続日本紀によると、桓武天皇の病気平癒のため、室生の地において祈願したところ、竜神の力で見事に回復したので、興福寺の僧の賢憬(けんけい)が、朝廷の命で、ここに寺院を造ることになったそうです。

この為、青龍(せいりゅう)のお寺とも言われます。

のどかな風景です。

室生寺の「室」(むろ)とは、三室(みむろ)という神様の坐る山という意味だそうです。

三輪山は、古来から三諸山(みむろやま)と呼ばれ、この室生山と同じ神様が祀られているようです。

大和の日の出の山として古くから信仰されている三輪山の麓に、桧原神社(ひはらじんじゃ)という神社があり、初めて天照大神を祀った所とされています。

この社の真東に室生寺があり、さらにその真東に伊勢内宮の元の社地とされる伊勢の斎宮跡があるそうです。

室生寺の古い記録には、室生山には大日如来の宝珠があって、これが垂迹して天照大神になったという伝承もあるそうです。

このお寺は、石楠花(しゃくなげ)が有名で、2週間前ぐらいは満開だったようですが、例年に比べて早咲きだったそうで、残念ながら、今回は、もう花が散ってしまった後でした。

降り注ぐ木漏れ日がまるで印象派の絵画のようです。

花は咲いていませんが階段の両脇にあるのが石楠花(しゃくなげ)です。

この室生寺の近くに龍穴神社(りゅうけつじんじゃ)という神社があり、そこに吉祥龍穴(きっしょうりゅうけつ)という龍が隠れた穴があるそうです。

 

室生寺(むろうじ)の「室」(むろ)は氷や雪を蓄える「氷室」(ひむろ)を意味するのかもしれません。

 

孝徳天皇(こうとくてんのう)の時代、熊野(くまの)は紀伊国(きいのくに)と別の国であったのを、紀伊国の牟婁郡(むろぐん)に編入したとされます。

熊野は熊野権現(くまのごんげん)=素戔嗚尊(すさのおのみこと)の国を表し、「熊野」と「牟婁」(むろ)は同じだという事です。

 

神が隠れ籠れる所を「神奈備(かんなび)の御室(みむろ)」と呼びます。

 

天照大神が隠れた天岩戸であり、「冬」を意味します。

「龍穴」(りゅうけつ)は「御室」(みむろ)を表しているのかもしれません。

室生寺は龍穴神社の神宮寺であった時代もあるそうで、後で、寄ってみたいと思います。

通常は8本腕が普通なのですが、10本腕の軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)です。

入口のところに少しだけ石楠花(しゃくなげ)がありました。

それでは、龍穴神社に向かいます。

着きました。

大きな杉の木に囲まれています。

この神社の杉は、どれも、樹齢600年は超える巨大な杉だそうです。

鳥居も小さく見えます。

拝殿です。

御祭神は、大物主命ではなく、高龗神(たかおかみのかみ)だそうです。

龗神(おかみのかみ)は闇龗神(くらおかみのかみ)と高龗神(たかおかみのかみ)の二神が存在します。

前者は卑弥呼(ひみこ)のことであり、推古天皇(すいこてんのう)のことです。

後者はその後継者となった壱與(いよ)であり、皇極天皇(こうぎょくてんのう)になります。

善女龍王社(ぜんにょりゅうおうしゃ)と書かれています。

弘法大師が雨乞いを行った際に現れた龍王で、宝珠を持ち、龍そのものではなく、龍を統べる女神とされます。

丹生明神(にうみょうじん)という別名もあります。

それでは、これから吉祥龍穴に向かおうと思います。

吉祥とは、吉祥天(きっしょうてん)のことだと思われます。

宝珠を持つ仏教の女神で、毘沙門天の妃とされる神様です。

推古天皇を象徴する仏様です。

この龍穴には、須勢理毘売命(すせりびめのみこと)が籠もった旧跡とされ、延暦9年(790)に須勢理毘売命の社は現奈良県榛原町赤埴(あかばね)鎮座の白岩神社(しらいわじんじゃ)に遷座したと言われています。

須勢理毘売命は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の娘で、大国主命(おおくにぬしのみこと)と結婚した女神です。

闇龗神(くらおかみのかみ)=推古天皇のもう一つの名前でもあります。

天の岩戸神社です。

記紀によると、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、天照大神は天岩戸に引き籠ったとされます。

皮を剥いだ馬とは、赤馬のことで、蘇我氏を表しているのかもしれません。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)は蘇我馬子(そがのうまこ)のことで、蘇我氏が馬具や、皮革製品の技術に長けていたのかもしれません。

藤原四兄妹に、藤原式家(ふじわらしきけ)があります。

式家は、藤原不比等が県犬養三千代(あがたいぬかいみちよ)と再婚する前に、蘇我馬子の曾孫である蘇我娼子(そがのしょうし)と結婚して、生れた三男の藤原宇合(ふじわらのうまかい)を祖とします。

遣唐使の副使として入唐する前は、馬養(うまかい)と称していました。

藤原氏の中で、馬の養育を担当していたのかもしれません。

この式家が、天武天皇を滅ぼしました。

天武天皇の皇統断絶等もあって、蘇我氏の血は、女系ながらも蘇我娼子(そがのしょうし)が引き継ぎ、藤原氏を通す形で現在まで伝える事となります。

蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)も、皇極天皇を通して蘇我氏の血を残したとされますが、蘇我馬子の血は入っていません。

女王卑弥呼は不老不死だと信じられていて、卑弥呼の死後、後継者が現われるまでは、それを隠す必要があり、岩戸に隠れたと表現したのかもしれません。

夜には太陽も沈みます。

新しく岩戸が開いた時が、新王朝の始まりだというわけです。

その後、卑弥呼は白山権現(はくさんごんげん)、白山明神(はくさんみょうじん)などと呼ばれます。

山に積もった「雪」の女神であり、菊理媛命(きくりひめのみこと)という「白菊」(しらぎく)を象徴する女神となります。

ここから階段を下って行きます。

平らな岩盤の上を、滑るように、ゆっくりと水が流れて来ます。

こういう滝を、滑滝(なめたき)と言い、雨乞いが行なわれたことから、「招雨瀑(しょううばく)」と呼ばれます。

水の流れる音が、静かに響きます。

着きました。

柵の向こうが龍穴のようです。

ここで、桓武天皇が雨乞いの祈祷を行なったと言われます。

「日本紀略」延喜10年(910)7月10日条に、雨乞いの際に、室生龍穴に牝馬を投げ込んだと書かれています。

日本各地で、雨乞いに馬を生贄にした風習が残っており、この室生龍穴が発祥の地のようです。

おそらく、当初は、馬は蘇我馬子(素戔嗚尊)を表し、牝馬は、推古天皇のつもりで、龍神に捧げる儀式だったのだと思いますが、時代が変わり、祈願をする際に高価な馬を殺さずに奉納する風習に変わっていき、現在の「絵馬」(えま)の形態にまで発展したのだと思われます。

どこの神社にも、馬の像が奉納されている理由は、ここから来ています。

龍神は、生贄なんかは望んでいなかったと思われますが、ここが、「絵馬」の発祥の地と言えそうです。

龍神とは元々は八岐大蛇(やまたのおろち)=物部守屋を指していたものだと思われますが、桓武天皇の平安時代以降には推古天皇が九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)という龍神になり、入れ変えられたようです。

それでは、そろそろ帰りましょう。

 

戦後の日本を代表する写真家の一人、土門拳氏(どもんけんし)が室生寺の住職に「どの季節の室生寺が良いか?」と尋ねたところ、「白皚々(はくがいがい)たる雪の室生寺が第一等」との言葉を聞き、40年の月日を経て、執念で雪の室生寺を撮ったと言います。

そして、室生寺を一躍有名にしたと言われるのが「室生寺 雪の鎧坂金堂見上げ」の一枚です。

 

まるで水墨画のよう景色です。

 

JR東海さんの「室生寺」のCMも良く出来ているので、一緒に載せさせていただきました。

コメント: 0 (ディスカッションは終了しました。)
    まだコメントはありません。