平群坐紀氏神社(へぐりにいますきしじんじゃ)

こちらは、紀氏の祖神とされる平群木菟宿禰(へぐりのずくのすくね)を御祭神とする神社です。

「平群木菟」(へぐりのずく)は、「仁徳天皇」と同日に生れたとされ、応神天皇(おうじんてんのう)の産屋には「木菟」(ずく)が、武内宿禰(たけうちすくね)の産屋には「雀」(すずめ)がそれぞれ飛び込んできたため、互いの鳥を交換して子供に名前を付けたと日本書紀に書かれています。

応神天皇の子が仁徳天皇の諡号である大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)=「雀」で、武内宿禰の子が「平群木菟」(へぐりのずく)=「木菟」です。

仁徳天皇の名前は古事記では大雀命、日本書紀では大鷦鷯尊で、「雀」(すずめ)と「鷦鷯」(ささぎ)が同じ鳥を指すのか、別の鳥を指すのかは謎ですが、「鷦鷯」は「ミソサザイ」という鳥だと言われる方もあります。

どちらも鳴禽類と呼ばれる「雀」の仲間なので、朱雀(すざく)など鳥全般を意味する言葉として使用されたのかもしれません。

応神天皇は皇極天皇(こうぎょくてんのう)の和爾氏(わにし)を神格化した天皇で、武内宿禰は藤原鎌足(ふじわらのかまたり)を神格化した人物だと思われます。

 

皇極元年に蘇我蝦夷(そがのえみし)が珍しい白い「雀」を捕まえて「籠」(かご)に入れ、それを蘇我入鹿(そがのいるか)に献上したとされます。

「雀」は蘇我氏を表す鳥であり、仁徳天皇が「大雀命」(おほさざきのみこと)と呼ばれる事から、蘇我氏の長である事を象徴しているものと思われます。

素戔嗚尊(蘇我馬子)から後継者として認められた大己貴命(おおあなむじのみこと)であり、仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)は大物主命の子供の大国主命(敏達天皇)へと名前が変わる「蘇我倉山田石川麻呂」(そがくらやまだいしかわまろ)の墓ではないかと私は思います。

 

贄(にえ)を「木」に突き刺す「百舌鳥」(モズ)も「雀」の仲間とされます。

「木」に「鈴」を掛けて信仰する氏族であり、住吉(隅っこが良い)の細江から出発した「一寸法師」であり、狭井(さい)の氏族です。

大物主命の荒御魂で、「三」(三輪)を象徴する竈(かまど)の神様でもあり、三宝荒神(さんぽうこうじん)という異名もあります。

物部氏(火)、蘇我氏(風)、秦氏(水)の三氏族の橋渡しをした「三つ巴」の神様であり、三本足の「八咫烏」(やたがらす)が一番有名かもしれません。

蘇我氏を象徴する天若日子(あめのわかひこ)にそっくりな「阿遅鉏高日子根神」(あじすきたかひこねのかみ)という異名もあり、茗荷(みょうが)と茄子(なすび)の産地である高知県の土佐神社(とさじんじゃ)で祀られたりもします。

 

「雀」は伏見稲荷大社の屋台などでは、「ウズラ」が「雀の丸焼き」として売られています。

「雀」は農家にとっては「稲」を食べる悪者だというわけです。

 

「雀」は「鈴女」(すずめ)という意味があるのかもしれません。

蘇我氏を象徴する神武天皇の皇后になった「媛蹈鞴五十鈴媛命」(ひめたたらいすずひめ)は百合の花の「物部氏」を意味し、伊勢神宮の内宮の神域を流れる五十鈴川(いすずがわ)を象徴するようです。

「五十鈴」(いすず)は「五十鈴」(いそすず)が短縮されたもので、「五十」(いそ)=「磯」(いそ)を表し、「鈴」の魂振り神事を行った物部氏で、布留山(ふるやま)の石上神社(いそのかみじんぐう)を表すようです。

「鈴木」という姓は物部氏を祖とする穂積氏から分かれた氏族が有名ですが、物部氏の役を演じている蘇我倉山田石川麻呂なのかもしれません。

饒速日命(にぎはやひのみこと)=大物主命(おおものぬしのみこと)の息子だとされる「宇摩志麻遅命」(うましまじのみこと)という名前もあります。

 

藤原式家の影響下にあった平安時代の初期と、藤原北家の影響下にあった平安時代の末期では、それぞれの人物への思い入れが違っていて、それが、古事記や日本書紀の記述の違いなどを生んでいるのかもしれません。

「木菟」(ずく)は、「梟」(フクロウ)の事で、耳のような羽角(うかく)と言う羽毛があるものは、耳のある「木菟」で「ミミズク」と呼ばれます。

漢字で、木菟(ぼくと)と書くのは、樹の上に住む兎(うさぎ)の意味で、羽角をウサギの長い耳になぞらえたものだそうです。


木菟」(ずく)と「雀」を交換したというのは、「仁徳天皇」に皇位を譲った「菟道稚郎子」(うじのわきいらつこ)のことで、蘇我氏に皇位を譲った秦氏だと思われます。

平群木菟」(へぐりのずく)と「菟道稚郎子」(うじのわきいらつこ)は、同一人物なのかもしれません。

「菟道稚郎子」(うじのわきいらつこ)は、応神天皇(和邇氏)と宇治木幡の豪族の娘、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)との間に生まれた人物です。

菟道(うじ)と書くのは、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が兎に道案内されて、この地にやって来たからだそうです。

平群氏(へぐりし)は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の時代に全盛を迎えますが、平群木菟」(へぐりのずく)の子の「平群真鳥」(へぐりのまとり)が武烈天皇(ぶれつてんのう)の命を受けた大伴金村(おおともかねむら)に打たれ絶滅させられたとされます。

武烈天皇はおそらく、天智天皇の第一皇子であった第39代天皇の弘文天皇(こうぶんてんのう)がモデルで、「伊賀」(いが)=「三重」(みえ)を象徴する天武天皇と持統天皇の子供である草壁皇子の草(竹)の子孫と天武天皇の子孫である紀氏の「甲賀」(こうが)=「滋賀」(しが)を分断する大友皇子(おおとものみこ)になります。

壬申の乱(じんしんのらん)で蘇我氏の残党を率いた叔父の天武天皇に殺されますが、ここでは逆に平群氏(天武天皇)や蘇我氏を滅ぼした人物として盛り込まれたものと思われます。

武烈(ぶれつ)は天武天皇を象徴する「竹」(武)を「裂く」(烈)という意味だと思われます。

大友皇子の母は鳴塚古墳(なりづかこふん)のある伊賀市大山田村鳳凰寺の出身で、天皇の食膳の奉仕をした下級の女官の「采女」(うねめ)であったとされ、「伊賀采女(いがのうねめ)宅子娘」(やかこのいらつめ)と呼ばれます。

平群木菟が皇極天皇で、その息子とされる平群真鳥が鳳凰の毘沙門天で、天武天皇に当たるようです。

この平群町の梨本(なしもと)は藤原四兄弟との政権争いにより追い落とされた天武天皇と持統天皇の子孫である長屋王が眠っているお墓がある場所でもあります。

先代旧事本紀によると饒速日命(にぎはやひのみこと)の護衛として付き従った32神の1柱の天道根命(あまのみちねのみこと)が、神武天皇によって初代の紀伊国造に任じられたとされます。

紀氏(きし)とは、木の菟道(うじ)という意味で、蚕(かいこ)を表しているのかもしれません。

 

「仁徳天皇」(にんとくてんのう)と共謀して、「大山守命」(物部守屋)を宇治川に沈めて殺し、仁徳天皇に皇位を譲って自殺したとされる「菟道稚郎子」(うじのわきいらつこ)は、本来、応神天皇が皇位を譲りたかった人物だとされます。

 

おそらく、「大山守命」は物部氏、「仁徳天皇」は蘇我氏、「菟道稚郎子」は秦氏を表していて、秦氏が本来の後継者だったのかもしれません。

 

宇治の宇治上神社に祀られていて、神紋は三つ橘紋で、私は「菟道稚郎子」は源光(みなもとひかる)ではないかと思っています。

 

浄土宗の開祖である法然の先祖であり、源氏物語の光源氏の隠されたモデルでもあると私は思います。

 

源光は菅原道真(すがわみちざね)を追い出し、天皇家の外戚としての藤原北家の影響を再び強めた人物で、橘嘉智子(たちばなかちこ)の孫になります。

 

橘嘉智子は菅原道真と同じく、蘇我倉山田石川麻呂の子孫で、ヤマトタケルの神話に登場する弟橘媛(おとたちばなひめ)のモデルだと私は思っていて、天武天皇と持統天皇の子孫と共に、石として自ら海の底に沈んだ人物です。

 

葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)(鹿)によって伽耶国(かやこく)から招かれた弓月君(ゆづきのきみ)の子孫で、聖徳太子(蘇我氏)に加担したとされる秦河勝(秦氏)は「菟道稚郎子」の一族を表しているのかもしれません。

 

山幸彦(物部氏)、海幸彦(蘇我氏)、川幸彦(秦氏)で、「河(川)が勝つ」という意味が「河勝」(かわかつ)には籠められているのかもしれません。

「鰐」(八尋鰐)を騙して、渡来した「兎」(秦氏)が「鰐」に「皮」(川)を剥がれて赤く染まっていたのを、大国主命(敏達天皇)が蒲の穂によって助けて、白く戻したという因幡の白兎の話があります。

日本書紀には加羅にいた秦氏を葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)が日本に連れて来ようと朝鮮半島に渡ったが新羅に邪魔をされて帰って来れず、平群木菟宿禰と的戸田宿禰を派遣して新羅王を処罰し、葛城襲津彦と共に秦氏が帰国したと書かれているようです。

八尋鰐(やひろわに)は皇極天皇の事で葛城氏を意味するのかもしれません。

仁徳天皇の時代に秦氏は、治水工事をさせられすぎて、あかぎれになっていたという意味も含めているようです。

 

「蘇我氏」という名前は、「我が無い」というのが前提の仏教に対して、「我が蘇る」という字を当て「蘇我」になったのだと思われます。

煩悩を持ったまま悟りを開ける「煩悩即菩提」(ぼんのうそくぼだい)という本覚思想が名前の由来かもしれません。

「蘇我氏」は、すがすがしい朝日の女神で「麻」(あさ)を意味する推古天皇(すいこてんのう)を女帝として立てた氏族です。

「昼」は持統天皇、「夜」は皇極天皇だと思われます。

かぐや姫の持統天皇は「月」のお姫様だとされるのは、「月」が「夜」を表し、持統天皇が皇極天皇の孫に当たるからかもしれません。

推古天皇を象徴する千手観音菩薩を本尊とする清水寺(きよみずでら)の「清」(きよ)は「清々しい」(すがすがしい)水のお寺の意味があるようです。

 

火はイエス・キリスト、水はマグダラのマリアで、神と人間という対比でもあり、神と人間の統合が金剛界と胎蔵界の統合であり、宇宙生命と呼ばれる毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)が統合された悟りの境地のようです。

 

饒速日命(にぎはやひのみこと)の父の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の弟神が天穂日命(あめのほひのみこと)で、その子孫は、「土師氏」(はじし)ですが、この「土師」(はじ)という名前は、秦氏を表す「葉が死ぬ」という意味と、物部氏が「蛇」(へび)を象徴するのに対して、土師氏は「蜂」(はち)を象徴します。

「蜂」はマグダラのマリアという女王蜂を守る意味があり、フランス王家の始祖とされるメロヴィング朝の初代国王キルデリク1世の墓から出土した金で造られた蜂や、ナポレオンのシンボルとしても有名です。

人間が神様と統合される可能性をマグダラのマリアが表しているという事なのかもしれません。

 

「土師氏」から分かれた氏族に菅原道真(すがわらみちざね)の「菅原氏」(すがわらし)がありますが、「菅原」には、「菅」(蘇我)を「原」(平らにする)という意味があるようです。

 

「土師氏」の氏寺でもある長谷寺の神紋の「輪違い紋」は輪が重なった部分にアーモンドを意味するマーキス型の目が出来る形で、「火」と「水」が重なって「風」が生まれる事を意味するのだと私は思います。

マーキスはキリスト教にとってはマンドルラと呼んで、特別な意味を持つようです。

 

風は「空」であり、如意宝珠の悟りです。

 

垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代に、土師氏の祖神の「野見宿禰」(のみのすくね)が相撲して倒したとされる「当麻蹴速」(たいまのけはや)とは、蘇我氏の残党を率いた天武天皇のことで、それ以降、蹴速の土地は没収されて、勝者の「野見宿禰」の土地になったとされます。

「菅氏」のものは、「土師氏」のものになって、「菅原氏」に改名したということなのかもしれません。

赤兎が、鳳凰(ほうおう)で天武天皇(梶)の平群氏(へぐりし)を表し、白兎は、皇極天皇(桂)の紀氏(きし)を表しているのだと思います。

つまり、平群氏と紀氏は同じ葛城氏(かつらぎし)に統合され、蘇我氏の象徴であった「木」を名乗るように変えられたのではないかと思われます。

葛城(かつらぎ)は天智天皇の諱ですが、桂木(かつらぎ)で皇極天皇を指すようです。

 

石が沈むのに対して木は浮かぶという事だと思います。

 

この神社は、中世では、春日神社(かすがじんじゃ)と名前を変えられたこともあり、和邇氏(わにし)=応神天皇に統合されたようです。

 

鰐は宗像三女神であり、持統天皇に代わり代表となった皇極天皇を表します。

それでは、ここから少し移動したいと思います。

着きました。

こちらは、椿井井戸(つばいいど)と呼ばれる井戸です。

聖徳太子が物部守屋の征伐の時に、聖徳太子と共にに参加した平群神手(へぐりのかみて)という人物がいて、苦戦が続き、兵の士気が衰えていたので、挽回と戦勝を祈願しに、椿井春日神社を訪れ、椿(つばき)の杖を突き立てると、不思議なことに杖は一夜にして芽を吹き、きれいな冷泉が湧きだしたとされます。

これを飲んだ聖徳太子や兵たちは、士気が大いに盛り上がり、物部守屋に勝つことが出来たので、椿井井戸と命名したそうです。

椿の材質で作った卯杖(うづえ)というものがあります。

正月の初卯の日に邪気をはらう呪具として用いられた杖で、日本書紀の持統天皇3年(689年)に、献上された記述があります。

聖徳太子が椿井井戸に突き立てた杖と同じです。

「うづ」とは打ち捨てるという意味があるそうで、「太」の事のようです。

平群神手(へぐりのかみて)の「神手」(かみて)とは、紅葉の葉の形を表し、勝手明神(かってみょうじん)と呼ばれた天武天皇の事だと思われます。

平群町史によると、平群坐紀氏神社の旧社地の隣の田の坪名が見えるのが、復元条里制地図より見て、椿井邑に当たり、 平群坐紀氏神社は元は椿井邑にあり、その神社が椿井春日神社ではないかと言われているそうです。

紀氏の木が、椿(つばき)とされたのは、春に「赤い花」を咲かせる木なので、「春日」(かすが)の木という意味があるのかもしれませんが、椿花弁が個々に散るのではなく萼と雌しべだけを木に残して丸ごと落ちるので、それが、首が落ちる姿と似ていることから縁起の悪い木ともされています。

 

和歌山県の各地に、椿の古根が蘇我氏の化け物である「牛鬼」(ぎゅうき)に化けるという伝承もあり、紀氏は蘇我氏と係わりの深い氏族であることが分ります。

 

私は紀氏は天武天皇の葛城氏系の子孫で惟喬親王(これたかしんのう)の平安時代に藤原氏の源氏の祖である惟仁親王(これひとしんのう)が清和天皇(せいわてんのう)として即位してから力を失っていったのだと思います。

 

この椿(つばき)ですが、日本では海柘榴(つばき)と書かれ、中国では椿というと「山茶」(さんちゃ)という「茶」の木を指す言葉になるそうです。

 

日本と中国では、全然、意味が異なるそうです。

ここで、少し話は変わりますが、天岩戸に隠れた天照大神を、引き戻すことに貢献した天宇受賣命(あめのうずめのみこと)という女神がいます。

天宇受賣命(あめのうずめのみこと)の宇受(うず)とは雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)が秦酒公(はたのさけのきみ)に兎豆満佐(うずまさ)の姓を賜ったとされる兎豆(うず)と同じで、秦氏の女性を象徴しているようです。

そして、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)と結婚したのが、猿田彦命(さるたひこのみこと)で、椿大明神(つばきだいみょうじん)とも呼ばれます。

猿田彦命は、道案内の神様とされ、藤原鎌足を表しているように思います。

 

秦河勝の遠孫が、申楽(さるがく)の芸を伝え、春日(かすが)、日吉(ひえ)の神職に就いたとされ、秦河勝を祀る赤穂(あこう)の大避神社(おおさけじんじゃ)の大避大明神(おおさけだいみょうじん)とは、酒の神である大荒大明神(だいこうだいみょうじん)のことだと思われます。

 

紅葉を象徴する「猩々」(しょうじょう)と呼ばれる猿の化け物は秦氏を表しているのかもしれません。

 

「春日」(かすが)とは、「鹿」(しか)の「菅」(すが)という意味だと思われます。

武烈天皇(ぶれつてんのう)の命令で、平群真鳥(へぐりのまとり)を滅ばした大伴金村(おおともかねむら)が、蘇我氏の血を引かない応神天皇の5世の孫の男大迹王(をほどのおおきみ)を連れてきて、継体天皇(けいたいてんのう)として即位させ、蘇我氏の血を引く手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とすることで、応神天皇(和邇氏)と、蘇我氏の立場がひっくり返ったわけです。

 

手白香皇女は光仁天皇の母親の紀橡姫(きのとちひめ)を表していたのかもしれません。

 

私は大友皇子は物部守屋のモデルで、聖徳太子と物部守屋とが対決する飛鳥時代の物語は平安時代に創られたものではないかと思います。

 

物部守屋の子孫である宮道列子(みやじのれっし)の血が醍醐天皇(だいごてんのう)の中に流れて、「相生の松」という木が完成したのかもしれません。

 

相生の松について

大伴氏(おおともし)は、白い狼(白犬、白狐、白虎、白馬)=豊受大神(とようけのおおかみ)になり、蘇我倉山田石川麻呂の氏族だと思われますが、後で皇極天皇を指すようになり、天智天皇の長子であった弘文天皇(大友皇子)を象徴する氏族へと変えられたのかもしれません。

 

龍田明神(たつたみょうじん)は赤い「鳳凰」の天武天皇を赤い「赤龍」に変え、「白虎」の皇極天皇を白い「白龍」の白髭稲荷大明神として集合させているようです。

 

白髭(しらひげ)には猿田彦大神=藤原鎌足の意味も含まれ、赤い鳥(鳳凰)=平郡氏が、白い狼(白虎)=大伴氏に倒されたということです。

 

蘇我氏を象徴する推古天皇(すいこてんのう)は九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)と呼ばれます。

「木菟」(ずく)の反対が「九頭」(くず)=「葛」(くず)なのかもしれません。

 

 滋賀県の琵琶湖にある竹生島(ちくぶじま)の都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)の「都久」(つく)も「木菟」(ずく)と同じ意味で、満月の中で餅を「搗く」(つく)兎(うさぎ)の「杵」(きね)の市杵島姫(いちきしまひめ)であり、月の夜を見る=「月夜見」(つくよみ)の「月」(つく)になります。

「都久」(つく)の反対は、「西」の方角の水の中に沈んでいく太陽を表した「沓」(くつ)になります。

竜宮城の乙姫様であり、かぐや姫の妹の推古天皇になります。

フクロウは視野が広い為、広目天(こうもくてん)と呼ばれ太陽が沈む「西」を守護する形となります。

 

「西」は「酉」(とり)の方角であり、水の無くなった「水無」(みな)の「瓶」(かめ)=「亀」(かめ)=推古天皇を意味します。

 

法隆寺(ほうりゅうじ)は「法」(だるま)によって「波」(水)=波多氏(はたし)が無くなった「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう)を表すようです。

こちらは椿井春日神社(つばいかすがじんじゃ)で、平群氏春日神社(へぐりしかすがじんじゃ)とも呼ばれるようです。

春日とは和邇氏(わにし)を表します。

平群氏春日神社沿革記と書かれています。

 

第5代天皇の考昭天皇(こうしょうてんのう)と呼ばれる欠史八代の一人とされる天皇がいます。

その第一子が天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と呼ばれる和邇氏の祖です。

そして、第ニ子が、日本足彦国押人命(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)で、第6代天皇の孝安天皇(こうあんてんのう)として即位し、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の娘の押媛(おしひめ)を皇后として二人の皇子を儲けます。

第一皇子が、大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)で、子孫の提原王が武内宿禰の養子になり、第12代天皇の景行天皇(けいこうてんのう)の勅命によって平群の姓を賜ったとされ、平群氏の祖とされます。

景行天皇は景教徒(ネストリウス派のキリスト教徒)の秦氏を導く猿田彦大神(さるたひこおおかみ)を神格化した天皇です。

秦氏の長として藤原鎌足を象徴する「翁」(おきな)の白髭明神(しらひげみょうじん)という名前もあります。

 

そして、第二皇子が、大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)で、第7代天皇の孝霊天皇(こうれいてんのう)として即位します。

私は、名前からして、この天皇は紀氏の祖である天道根命(あまのみちねのみこと)を象徴する天皇ではないかと思います。

平郡氏ではなく、紀氏が皇位を継いだとして、平郡氏と紀氏が別の氏族として切り離されているように感じます。

そして、紀氏を象徴する孝霊天皇(こうれいてんのう)が、「倭国香媛」(やまとのくにかひめ)=「蚊」(か)を妃にして生れたのが、大物主命の妃となった「倭迹迹日百襲媛命」(やまとととひももそひめのみこと)です。

女王卑弥呼(じょおうひみこ)ではないかと言われている人物で、日本で最初の女帝と言われる推古天皇(すいこてんのう)を象徴する人物です。

 

そして、孝霊天皇(こうれいてんのう)が、「絙某弟」(はえいろど)=「蠅」(はえ)を妃にして生れたのが「稚武彦命」(わかたけひこのみこと)で、雄略天皇と同じく桃太郎のモデルと言われる蘇我氏系の人物で、おそらく蘇我入鹿を表しているのだと思います。

 

推古天皇は女帝として即位していますが、ここでは、どちらも皇位を継げず、磯城県主大目(しきあがたぬしおおめ)の娘の細媛命(くわしひめのみこと)を皇后として生れた大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)が、第八代天皇の孝元天皇(こうげんてんのう)として皇位を継いだ形になっています。

八幡神(はちまんしん)であり、そのシンボルが「鳩」(はと)になります。

 

法隆寺と龍田大社の間には藤ノ木古墳(ふじのきこふん)があります。

被葬者は物部守屋と共に滅ぼされた「穴穂部皇子」(あなほべのみこ)とその子供の「宅部皇子」(やかべのみこ)であり、蘇我倉山田石川麻呂の同族と思われます。

「穴穂部皇子」の姉が「穴穂部間人皇女」で聖徳太子の母で、蘇我氏と物部氏の「橋渡し」をした「土師氏」を象徴するようです。

法隆寺の別名を斑鳩寺(いかるがでら)と呼び、怒りで八幡神となった「斑」(まだら)の「鳩」(はと)を意味するようです。

摩多羅神(まだらしん)の蘇我倉山田石川麻呂を意味するのかもしれません。

八幡神は「蘇我氏」への復讐を果たした皇極天皇であり、「物部氏」に味方した為に犠牲になった「穴穂部氏」=蘇我倉山田石川麻呂を弔う意味が法隆寺にはあるようです。

孝元天皇(こうげんてんのう)の孫の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)が、紀国造りの宇遅彦命(うじひこのみこと)の妹の宇遅姫(うじひめ)=山下影姫(やまとかげひめ)を妃として生れたのが、浦島太郎の藤原鎌足を象徴する武内宿禰(たけうちのすくね)だとされます。

紀、巨勢、平群、葛城、蘇我氏など、ほとんどの諸豪族の祖とされ、秦氏の子孫の宇遅氏(菟道氏)の血が、ほとんどの諸豪族に流れていることになり、菟道=氏(うじ)なので、これに当てはまらない人を氏素性(うじすじょう)の分らない馬の骨と揶揄しました。

武内宿禰(たけうちのすくね)が、更に、宇遅彦命(うじひこのみこと)の子の宇豆彦命(うずひこのみこと)の娘とされる宇乃姫(うのひめ)を妃として生れたのが紀角宿禰(きのつののすくね)で、ここから紀氏が始まったとされます。

宇遅(うじ)が武内宿禰を通じて太秦(うずまさ)の宇豆(うず)になり鬼の「角」が生えて土師氏の「牛」(うし)になるわけです。

300年生きたとされる翁の武内宿禰は藤原鎌足を意味し、諸豪族の祖とされる系図は藤原氏を中心に据える為に後から継ぎ足されたもので、本来は別々の氏族であったのだ私は思います。

春日社と書かれた額の隣りに甲大明神(かぶとだいみょうじん)と書かれています。

皇極天皇のシンボルの「甲」(かぶと)になります。

江戸後期に盗難にあったそうですが、境内にある宮山塚古墳から出土した兜(かぶと)を御神体としていたそうです。

「東」を守護する持統天皇(じとうてんのう)は「鴨川」(かもがわ)の持国天(じこくてん)で、「西」を守護する皇極天皇は「桂川」(かつらがわ)の広目天(こうもくてん)になります。

「鴨川」と「桂川」は下鴨神社(しもがわじんじゃ)=賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)の下で合流する形となります。

こちらが宮山塚古墳です。

椿井氏は、将軍藤原頼経(ふじわらのよりつね)の三男中納言氏房(うじふさ)が平群谷に移り住み椿井氏(つばいし)を称し、弘安5年(1282)には大納言に昇り、伊賀、大和、河内、阿波の太守に任ぜられ椿井城を築いたそうです。

椿井氏の家紋は裏菊=菊裏(きくり)だそうです。

旗の上に書かれている紋は、三葉柏(みつばかしわ)と言い、一枚の柏の葉を三つ重ねて、三つ葉に見立てた紋です。

椿井氏と争い、椿井氏を山城に追いやった筒井氏という氏族がいて、その筒井氏に仕えた島氏の家紋が三葉柏です。

椿井城は、石田三成の第一の家臣で、「治部少(じぶのしょう)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謳われた島左近(しまさこん)の居城としても有名だったようです。

新潮文庫から出ている司馬遼太郎氏の「関ヶ原」がおすすめです。

島氏も、本姓は藤原氏だそうです。

蘇我氏の残党を率いた天武天皇(てんんむてんのう)は蘇我馬子(そがのうまこ)の別名の嶋大臣(しまのおおおみ)の「嶋」(しま)を意味する第40(しま)代天皇です。

「島」は「嶋」と同じく蘇我氏と関係の深い名前になります。

天武天皇は諏訪大社(すわたいしゃ)の建御名方神(たけみなかたのかみ)であり、諏訪大社の神紋の「梶の葉」(かじのは)は、神様へのお供え物の食器とし使用された葉で、「柏」は蘇我氏の「梶の葉」の代用と考えられます。

「柏」(かしわ)とは、「堅し葉」(かたしは)という意味で、古代では「橿の葉」(かしのは)にご馳走を盛って神様に捧げていたそうですが、「橿の木」が蘇我氏を象徴する木の為に蘇我氏が滅亡した後は、天武天皇の「梶の葉」となりましたが、藤原氏との政権争いに天武天皇の孫の長屋王(ながやおう)が敗れ、「梶の葉」に代わって、今度は「柏の葉」(かしのは)が用いられるようになったものと思われます。

これに由来して、「柏」(かしわ)が神聖な木となり、両手を合わせて音を鳴らす行為を「柏手」(かしわで)を打つと言い、「神意」を呼び覚ますことを意味するようになったそうです。

「柏」(かしわ)という漢字は、木の白と書き、「白」はドングリの象形文字だとされ、お菓子の木を意味します。

「柏餅」(かしわもち)は5月5日の端午の節句(たんごのせっく)の供え物とされ、5本の手と5本の手が合わさる「柏手」(かしわで)を意味するようです。

5と5が合わさった10は物部氏の祖神の第10代天皇の崇神天皇(すじんてんのう)を表すのかもしれず、基本である二拍手(にはくしゅ)は初代天皇の神武天皇(じんむてんのう)と崇神天皇の二人を結ぶ第20代天皇の安康天皇(あんこうてんのう)の意味があるように思われます。

安康天皇は穴穂皇子(あなほのみこ)と呼ばれ、先程の藤ノ木古墳の被葬者だと考えられる穴穂部皇子(あなほべのみこ)とは別人とされますが、私は同じ蘇我倉山田石川麻呂を象徴する人物だと思います。

 

「柏」(かしわ)は日本では紅葉する落葉樹(らくようじゅ)ですが、中国で、この漢字は「柏」(はく)と読み常緑樹(じょうりょくじゅ)の木を表し、「椿」と同じく全然、日本とは意味が異なる漢字になります。

 

「鶏肉」(黄鶏)を「かしわ」と読むのも、その色が落葉した柏の葉の色(黄色)に似ている為だと言われますが、天武天皇を意味しているのかもしれません。

 

卯(う)や辰巳(たつみ)の方角(東口)が吉とされる玄関とは別に、裏口(西口)を勝手口(かってぐち)と呼びますが、袖振山(そでふりやま)の勝手明神(かつてみょうじん)とは天武天皇の事だと思われます。

ただし、奈良県吉野郡にある勝手神社の現在のご祭神は天火明命(物部氏)と瓊瓊杵尊(蘇我氏)の父である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)とされ、天智天皇を象徴します。

おそらく、天武天皇の血が皇室から途絶えた後に、変えられたものだと思います。

勝手明神と対とされる子守明神(こもりみょうじん)は皇極天皇だと思います。

「勝」(かつ)は「白」いお餅(もち)の事で、「手」(て)は「柏餅」(かしわもち)を包む「黄」(黄土色)の「柏」の葉を指すようです。

 

「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」という敵に勝っても油断せずに気を引き締めよという戒めの言葉で、北条氏綱(ほうじょううじつな)が最初に言った言葉とされます。

天武天皇は大友皇子に勝って天下を取りましたが、孫の長屋王(ながやおう)の代で藤原四兄弟に政権争いに敗れます。

豊臣秀吉も亡くなった後、豊臣秀頼と淀殿の代で徳川家康に敗れます。

この教訓から、徳川家康もこの言葉を好んで使ったとされ、徳川幕府を300年も続かせる結果となりました。

 

端午の節句で、登竜門で「天智天皇」の龍になる鯉(こい)は「蘇我倉山田石川麻呂」で「鯉のぼり」を外飾りというのに対して、「皇極天皇」の「兜」は内飾りと呼ばれます。

「兜」は武将が受ける「傷」を代わりに受けてくれる「身代わり」であり、厄除けの意味があるようです。

「黄」の勝手明神(天武天皇)は「白」の甲大明神(皇極天皇)の範疇だというわけです。

 

相撲(すもう)で勝ちを○(白星)と呼び、負けを●(黒星)と呼びます。

「黒星」は土俵に手が付く事で、手が黒くなる事から「黒星」というそうです。

黒は「敗」ける「北」=「敗北」(はいぼく)の「玄武」(げんぶ)であり、玄武岩(げんぶがん)の巌(いわ)を表します。

長柄(ながら)の人柱となった巌氏(いわうじ)であり、推古天皇と一つになる蘇我倉山田石川麻呂に当たります。

北野天満宮など「北」に祀られる「牛」の天神さんです。

推古天皇は天岩戸に隠れた「亀」であり、磐長姫(いわながひめ)になります。

京都府南丹市の摩氣神社(まけじんじゃ)のご祭神の大御饌津彦命 (おおみけつひこのみこと)は蘇我倉山田石川麻呂の事で、推古天皇の大宜都比売命(おおげつひめのみこと)とセットになります。

桃の節句を飾る「雛人形」(ひなにんぎょう)も厄除けの「身代わり」であり、昔は「流し雛」(ながしひな)と言って川に「雛人形」を流して厄を落としていました。

こちらは水に沈む推古天皇を意味し、天照大神の「雛形」(ひながた)=「八咫鏡」(やたのかがみ)の象徴である八咫烏(やたがらす)であり、下鴨神社(しもがもじんじゃ)で平安時代から続く行事として「流し雛」が行われています。

「雛人形」は宮中の「結婚式」を模したもので、夫婦和合の象徴である「蛤」(はまぐり)のお吸い物を食べたりします。

浅瀬の浜で採れる「蛤」は推古天皇と一つになった蘇我倉山田石川麻呂を表すようです。

この他、京都では「蜆」(しじみ)が食べられたりもするようで、こちらは天忍穂耳命の妃となった栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)で、蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)=玉依姫(たまよりひめ)を象徴し、推古天皇が小さく縮(ちぢ)んだ事を意味するようです。

「結婚式」を模した華やかな「雛人形」は室町時代以降に作られたもので、それ以前の桃の節句には夫婦和合を表す二枚貝ではなく、タニシやサザエなどの巻貝(まきがい)を食べていたようです。

「巻」(まき)は「太」(うず)に通じ、「摩氣」(まけ)を意味するというわけです。

3月3日は「耳」(みみ)の日で、「貝」は形状が「耳」と似ているので推古天皇を表していて、大和三山の耳成山(みみなしやま)は天神山と呼ばれ、蘇我倉山田石川麻呂を象徴するようです。

元々は耳が無い「耳無山」(みみなしやま)で、物部守屋を象徴していたようですが、耳が生まれる「耳成山」(みみなしやま)となって、沢山の言葉を聞き分けられる聖徳太子を象徴する北の守護神の「多聞天」(たもんてん)となったようです。

 

ちゃんこ鍋で、「鶏」の肉団子は煮ると白く「白星」だとされ、縁起が良いとされます。

また、手を「土」に付けない「鶏」(天武天皇)は縁起が良いとも言います。

反対に「牛」(蘇我倉山田石川麻呂)と「豚」=「猪」(推古天皇)は煮ると黒く、手が「土」に付く「四肢」(しし)の動物なので「黒星」で入れてはいけないそうです。

 

相撲を「角」(つの)の「力」(ちから)と書いて「角力」(すもう)と読みます。

蘇我倉山田石川麻呂は「カブトムシ」には負ける「クワガタ」=「桑の型」で、相撲の神様で野見宿禰(のみのすくね)と呼ばれた蘇我倉山田石川麻呂でも皇極天皇には勝てないようです。

 

角がある人の話

 

初代天皇の神武天皇(じんむてんのう)を御祭りした橿原神宮(かしはらじんぐう)の参道の約300ⅿⅿ続く銀杏並木(いちょうなみき)も、鮮やかな「黄色」になります。

 

神武天皇は元々は天武天皇を意味していたのだと思われます。

 

椿(つばき)の卯杖(うづえ)を突き立てた平群神手(へぐりのかみて)は、落葉した「黄」の「かしわ」であり、そこに秦氏の長の推古天皇からその地位を奪った藤原鎌足が加わり、芸能の神で猿田彦大神(猿楽)を象徴する秦河勝(はたのかわかつ)として、新しい秦氏のリーダーとなります。

地位を奪われた推古天皇は、新しく聖徳太子の弟で、奈良県橿原市に久米寺(くめでら)を建てたとされる来目皇子(くめのみこ)というポジションを貰います。

足フェチで、娘の「足」に見とれて空から転落し、神通力を失った久米仙人(くめせんにん)の伝説があり、「足」の多い百足(むかで)を象徴します。

葛城氏の北部の葦田宿禰(あしだのすくね)は推古天皇(秦氏)に当たり、南部の玉田宿禰(たまだのすくね)は天武天皇や蘇我氏に当たるようです。

聖徳太子(しょうとくたいし)の墓が大阪府南河内郡太子町の叡福寺(えいふくじ)にあり、「磯長陵」(しながりょう)と呼ばれ「磯」(いそ)を表します。

聖徳太子は本来は「蘇我氏」系の人物ですが、「桃(蘇我氏)より松(物部氏)が好き」と、「鰐」(わに)の神様で「多聞天」(たもんてん)である「皇極天皇」を神格化した「物部氏」系の人物になっています。

 

この「磯長陵」には、聖徳太子の母の「穴穂部間人皇女」(あなほべのはしひとのひめみこ)と、聖徳太子の妃の「膳部菩岐々美郎女」(かしわでのほききみのいらつめ)が宗像三女神のように三人一緒に眠っている「三骨一廟」(さんこついちびょう)と呼ばれる珍しいものです。

 

「穴穂部間人皇女」は「物部氏」と「蘇我氏」が争う事を嫌って丹後の天橋立(あまのはしだて)に逃げた人で「秦氏」を意味するようです。

「間人」(はしひと)を「退座」(たいざ)した事に因み「間人」(たいざ)と読み、その場を去る猿田彦大神であり、橋姫となった推古天皇であり、大己貴命である蘇我倉山田石川麻呂に当たります。

奈良の法隆寺と隣接する中宮寺(ちゅうぐうじ)を建てた人物だともされ、この寺の本尊である如意輪観音(にょいりんかんのん)の像は、京都の広隆寺(こうりゅうじ)の弥勒菩薩(みろくぼさつ)の像とそっくりだとされます。

 

「膳部菩岐々美郎女」は高橋紀とも書かれ「天武天皇」を意味します。

野で母の為に「芹」(せり)を摘んでいた所を聖徳太子に見染められ、「芹摘姫」(せりつみひめ)の異名があります。

「芹」(せり)は「春」の到来を告げる野菜で、「春の七草」は「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ」と必ず「芹」(せり)から始まります。

春に若菜を食べると若返りの力が宿ると考えられていたようで、山形県西置賜郡(にしおきたまぐん)白鷹町(しらたかちょう)には親を若返らせたいと考えた孝行息子が神様に祈ると、夢枕に神様が立ち、「七日正月に七草を食べて何千年も生きて来た白鳳(はくおう)という鳥がいて、鳥に食べられる前の六日に七草を摘み、酉の刻までに七草粥(ななくさがゆ)にして毎年、皆で食べれば若返る」とお告げがあり、農作物を食い荒らす鳥を追い払う「鳥追い」の行事と結び付いて「七草粥」を食べる風習が出来たとされます。

天武天皇を象徴する「虎」(とら)は岩手県では「鳥」(とり)の訛った言葉だとされ、「どんとの虎と 田舎の虎と 渡らぬさきに 何草はたく 七草はたく」と七草をたたきながら歌われたそうです。

「芹」(せり)は根が白いので「根白草」(ねじろぐさ)と呼ばれ、本当は秦氏なんですが蘇我氏にされた「白虎」(びゃっこ)=推古天皇を意味するようです。

 

そして、この「秦氏」と「蘇我氏」の二人と運命を共にするのが「蘇我氏」の仮面をかぶった「物部氏」の聖徳太子になるようです。

 

日本で一番多い姓は「佐藤」(さとう)であり、甘い「砂糖」(さとう)の「秦氏」を演じる「藤原氏」を表します。

ムカデ退治の藤原秀郷(ふじわらひでさと)を祖にする氏族が有名です。

 

二番目に多い姓は「鈴木」(すずき)であり、魂振り神事の「物部氏」を演じる「秦氏」の蘇我倉山田石川麻呂を表します。

 

三番目に多い姓が「高橋」(たかはし)で、「高」は「茶」と「白」の縞模様(しまもよう)の「鷹」(たか)であり、「竹」(たけ)であり、「秦氏」を演じる「凡海氏」の天武天皇になるようです。

 

高橋氏の遠祖とされる磐鹿六鴈(いわかむつかり)という人物がいます。

日本書紀によると、猿田彦大神を象徴する第12代天皇の景行天皇(けいこうてんのう)が覚賀鳥(かくがのとり)を見ようと海に入ると白蛤(しらはまぐり)を見つけ、これを磐鹿六鴈が酢に和えて「膾」(なます)として天皇に献上したので、膳大伴部(かしわでのおおともべ)を賜ったとされます。

 

覚賀鳥は魚を餌にする鶚(みさご)という鷹の仲間で、餌が捕れない時の為に捕った魚を貯蔵する習性があり、貯蔵された魚が自然発酵するのを人間が見て、魚を酢で締める鮨(すし)を思い立ったとされます。

 

蛤(はまぐり)は浅瀬(浜)で捕れる栗(くり)のような大きな貝で、二枚の貝殻が他の貝とは形が合わない為に「夫婦和合」を表し、桃の節句や、結婚式の祝膳に出される貝で、推古天皇と一つになった蘇我倉山田石川麻呂の象徴になります。

 

日本では、常緑樹の「樫」(かし)=「菓子」(かし)の木より、落葉樹の「楢」(なら)の木の方が神聖とされ、永遠の命よりも散り行く桜のように、生き方の美しさに意味があるとされます。

 

平群座紀氏神社の向かいに菊理姫(きくりひめ)を祭る楢本神社(ならもとじんじゃ)という神社があります。

「楢」(なら)=「奈良」(なら)の元になった女神で、白い菊の女神とされ、「木」(き)と「栗」(くり)を象徴しているようです。

「栗」は、どんぐりであり、敏達天皇が春日老女子を妃にして生まれた難波皇子の子の栗隈王(くりくまおう)が、橘氏の祖とされ、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の神紋の「三橘」(みつたちばな)でもあります。

「橘」は「金」や「山吹」など「月」の色の「黄」(き)色=「皂」(くり)色を意味するようです。

風水では「西」に「黄」色いものを置くと「金」が貯まるとされ、「栗」(くり)の字は「西」の「木」と書かれます。

「西」は白虎(びゃっこ)の「白」ですが、「栗」の「黄」の意味もあるようです。

 

平群(へぐり)という漢字自体の意味は、「均した国」と解せますが、平(なら)と群(くわ)で、蚕の好きな楢(なら)の葉や桑(くわ)の葉を表すのかもしれません。

桑は桑名明神(くわなみょうじん)の異名を持つ蘇我倉山田石川麻呂になります。

 

読みの「へぐり」とは、辺(ほとり)の栗(くり)で、辺栗(へぐり)という意味も含んでいるのかもしれません。

 

また、「平す」(ならす)は、「らす」(ならす)という意味にも取れ、「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)を鳴らした群(国)という意味にもなります。

毘沙門天(天武天皇)の佐保山(さほやま)を「平」(なら)した「平城山」(ならやま)=多聞天(金刀比羅さん)になります。

多聞天は多くを聞けた聖徳太子で、毘沙門天の代わりになります。

 

平群(へぐり)は木(き)や栗(くり)の生えた草叢(くさむら)を均した国で、菊理姫(きくりひめ)は、女王卑弥呼(推古天皇)の別名であり、楢(奈良)=紀氏(きし)の始まりの人物だというわけです。

紀氏は推古天皇や天武天皇と入れ替わった蘇我倉山田石川麻呂(八咫烏)の氏族と思われます。

こちらは、木の根っこに囲まれた宮裏山古墳です。

先程の宮山塚古墳とは、神社を挟んで裏側になります。

被葬者は誰なのかは謎です。

春日氏とは、この根っこのように、蘇我氏、和邇氏、息長氏、平群氏、紀氏、土師氏、藤原氏など、複数の氏族が複雑に絡み合っていて、その全体像が、とても分りにくい氏族となっているようです。

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  • #1

    ハムニ (火曜日, 16 2月 2016 23:32)

    初めまして つい最近 この ブログを知り 拝読させていただいています。
    楢の元になった女神が菊理姫。別名白山比咩とも言われていますが縄文時代の消えた白山(シラヤマ)王朝にもつながるんですね。オークの木楢やカシはドングリを産み 縄文時代の食に欠かせなかったと聞きます。そのドングリを入れておく土器を作ったのが土師氏でしょうか。