龍田大社(たったたいしゃ)

今日は風神を祀る龍田大社に来ました。

 

「嵐吹く 三室の山の 紅葉は 龍田の川の 錦なりけり」 (能因法師)

 

三室山(みむろやま)の紅葉は嵐に吹き散らされて、竜田川の川面に落ち、錦を織ったように美しい趣だという歌です。

三室山は、龍田大社がある山で、神南備山(かんなびやま)とも呼ばれます。

時期はずれに来ましたが、本来は「もみじ饅頭」で有名な秋(安芸)の宮島と同じく、秋に来ると紅葉が楽しめる所です。

ちなみに安芸の宮島の厳島神社の社家の佐伯氏は、大伴氏から分かれた氏族で、「白虎」(豊受大神)=お稲荷さんの氏族です。

大伴氏は百済系の氏族で、佐伯氏の出身である弘法大師空海が、百済系の光仁天皇(こうにんてんのう)と、高野新笠(たかのにいがさ)が生んだ桓武天皇(かんむてんのう)の庇護のもと、全国にお稲荷さんを広めたことは、偶然ではないように思えます。

弘法大師空海の東寺には、百済系の大国主命=敏達天皇(びだつてんのう)を祀る八島殿もあります。

龍田大社の主祭神は、天御柱大神(あまのみはしらおおかみ)と、国御柱大神(くにのみはしらおおかみ)とされ、別名が志那都比古神(しなつひこのかみ)と、志那都比売神(しなつひめのかみ)で、社伝では創建は祟神天皇(すじんてんのう)の時代だとされます。

「志那」(しな)とは、「息長」(おきなが)を意味するそうで、神功皇后の息長氏も表しているようです。

日本書紀では、伊邪那美命(いざなみのみこと)が朝霧を吹き払った息から生まれた風神が級長津彦命(しなつひこのみこと)と言い、この龍田大社の神様と同じ神様のようです。

私は志那都比古神(しなつひこのかみ)は赤色(高句麗)の天武天皇(てんむてんのう)の事で、志那都比売神(しなつひめのかみ)は、その母の皇極天皇(こうぎょくてんのう)の事で、セットにする事で、皇極天皇の白色(新羅)を強調しているのではないかと思います。

 

諏訪大社(すわたいしゃ)のある信濃国(しなのこく)は、「科野」(しなの)とされ、「科」(しな)の木の多い野原と解釈されていますが、「科」は「支那」(しな)と同じで、中国を指す「China」(チャイナ)を語源とする「Sina」(シナ)で外国から見た中国である「秦」(しん)を意味し、唐代の北インドは中国を「震旦」(チナ)と呼びました。

 

「信濃国」は秦氏の「秦の国」(しんのくに)という意味があるようです。

 

漢民族が自分達以外の大国で、「大秦」(たいしん)と表記した国はアケネメス朝ペルシア、バクトリア、セレウコス朝シリア、古代ローマ帝国などで、大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)を考えても、「秦」(しん)という言葉は元々は「ユダヤ人」を指す言葉だったようです。

 

記紀の斉明天皇(皇極天皇)6年12月や、推古天皇35年5月の段に、「蝿」(はえ)の大群が信濃国(科野国)で発生したと「蝿」(はえ)が特徴的に記されていることから、蘇我氏を象徴する素戔嗚尊(すさのおのみこと)を「蝿」(はえ)に例えて、秦氏はその子供の「蛆」(うじ)に例えているのだと思います。

こちらは、龍田大社のパンフレットです。

拝殿からお参りすると、龍田比古命と、龍田比売命と一緒に、志那都比古神と、志那都比売神をお参りする形になります。

龍田はおそらく、「鰐」(わに)の事で、「兎」(うさぎ)である秦氏を征服した西漢氏(かわちのあやし)=息長氏を指すようです。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)を考える時に、和珥氏(わにし)という氏族が、まず、頭に思い浮かびます。

応神天皇(おうじんてんのう)の時代に、東漢氏(やまとのあやし)の「阿知使主(あちのおみ)=饒速日命(にぎはやひのみこと)」が百済より連れて来たとされる王仁吉師(わにきし)が西漢氏(かわちのあやし)であり、その子孫が和珥氏で、神功皇后の子供の応神天皇とは、王仁吉師を神格化した天皇ではないかという気がします。

和珥氏は、第5代天皇の考昭天皇(こうしょうてんのう)の子の天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の子孫とされますが、考昭天皇(こうしょうてんのう)は欠史八代の一人とされます。

和珥氏は、古くから天皇家に妃を供給し、後の藤原氏を除くと歴史的に存在しないほどの氏族でありながら、一度も天皇を直接輩出していない謎の多い氏族です。

和珥氏が記紀に登場するのは、第10代天皇の崇神天皇(すじんてんのう)という饒速日(にぎはやひのみこと)を神格化した天皇に始まり、応神天皇から敏達天皇(びだつてんのう)までが最盛期で、その後の武烈天皇(ぶれつてんのう)までは、蘇我氏が最盛期となります。

しかし、大伴金村(おおともかねむら)によって平群真鳥(へぐりのまとり)は滅ぼされ、飛鳥時代(雉)が終わってからは、応神天皇5世の子孫とされる継体天皇(けいたいてんのう)(犬)の時代が始まります。

日本の天皇家は、神武天皇(じんむてんのう)から始まって、開化天皇(かいかてんのう)で二つのルートに分かれます。

一つは饒速日命(にぎはやひのみこと)の血を引く伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を母に持つ崇神天皇(すじんてんのう)で、こちらが日本武尊(やまとたけるのみこと)のルートで天皇家の直系で物部氏になります。

もう一つは、和珥氏の血を引く姥津媛命(ははつひめのみこと)を母に持つ彦坐王(ひこいますのみこ)で、こちらが神功皇后のルートで息長氏になります。

この二つのルートがまた応神天皇(おうじんてんのう)で一つになります。

物部氏が日本武尊(やまとたけるのみこと)を象徴し、和珥氏が神功皇后を象徴するというわけです。

日本武尊の父の第12代天皇の景行天皇(けいこうてんのう)は息長水依比売(おきながみずよりひめ)の孫である比婆須比売命(ひばすひめのみこと)。

継体天皇の祖である若野毛二俣王(わかぬけふたまたのおう)の母親は息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)。

敏達天皇に嫁いだ広姫(ひろひめ)は息長真手王(おきながまてのおおきみ)の娘で、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)を産み、その孫が皇極天皇になります。

重要な天皇には、常に息長氏の血が入っている形になります。

古事記や日本書紀は、天智天皇と天武天皇の母である皇極天皇(こうぎょくてんのう)の出身の息長氏の正統性を主張する為の書物とも考えられます。

暴れん坊の雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)という蘇我氏を象徴する天皇は、この応神天皇から、武烈天皇(ぶれつてんのう)までの間に納められていて、継体天皇(けいたいてんのう)以降は、その皇后に雄略天皇の血を引く手白香皇女(たしらかのひめみこ)をもらう形になり、応神天皇が和珥氏を象徴する天皇だとすると、和珥氏と、蘇我氏の立場が逆転したことになります。

おそらく、阿知使主(あちのおみ)の直系が三輪山を象徴とする物部氏で、蘇我氏は阿知使主(あちのおみ)に従って渡来した馬飼臣(うまかいのおみ)。

そして、阿知使主(あちのおみ)と、王仁吉氏(わにきし)の両方の血を引く氏族が春日山を象徴とする息長氏ではないかと思います。

日本書紀に、雄略天皇の皇后になった春日和珥童女君(かすがのわにのおみなぎみ)が身籠った時に、雄略天皇は、本当に自分の子かと疑い、それを物部目(もののべのめ)が諌めたという話の記述があります。

その疑われた子供が、春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)で、仁賢天皇(にんけんてんのう)の皇后となり、手白香皇女(たしらかのひめみこ)を産みます。

憶測ですが、大化の改新(たいかのかいしん)以降、蘇我氏の業績を消し、大物主命(おおものぬしのみこと)と、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を習合させて、継体天皇(けいたいてんのう)の正当性を外国に主張する意図が日本書紀にあったのかもしれません。

大物主命の息子の大国主命=敏達天皇(びだつてんのう)が、素戔嗚尊の与える試練に耐え、素戔嗚尊から本当の息子として認められるという神話とも重なります。

 蘇我氏と和珥氏を結び付け、やがて和珥氏をメインとして、蘇我氏は影を薄めます。

日本の仏教だけですが、インドのガンジス川の鰐(和珥)の神様とされるクベーラ(金比羅さん)と、孔雀を使いとする仏教の守護神ヴィシュヌ(毘沙門天)(蘇我氏)が同じ神様として習合している形になります。

日本書紀では、天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神(おほいみのかみ)を広瀬河曲に祀ったと書かれています。

大忌神は忌部氏(推古天皇)の神様であり、廣瀬大社(ひろせたいしゃ)を意味するようです。

龍田大社も廣瀬大社も天武天皇が建てたということです。

 

壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の軍勢は赤い旗を掲げ、赤を衣の上に付けて印としたと言われ、白をシンボルとする天智天皇(てんちてんのう)とは対称的で、この時から紅白は、どちらもめでたい縁起物の色とされ、源平合戦のルーツにもなったようです。

また、天武天皇は、飛鳥にも拘り、真っ赤に燃える「鳳凰」(ほうおう)の天皇とも呼べます。

今は、毘沙門天の使いは「ムカデ」とされていますが、本来は「鳳凰」で、「鳳凰」の冠を被った
兜跋毘沙門天」(とばつびしゃもんてん)が有名です。

「ムカデ」ほど、人から好かれにくい生き物はいません。

 

毘沙門天は、北の守護神で、現在、奈良の廃墟となったドリームランドという遊園地の辺りに、昔は佐保山(さほやま)という山があって、その山が、この神様の本来の居場所だと思われます。

 

紅葉の秋(赤)を表す龍田山に対して、佐保山は、霞(かすみ)の春(白)を表す山でしたが、現在は、その姿を見ることが出来ず、代わりに春日山(かすがやま)が、霞の春(白)を表す山となっています。

春日山は、和珥氏(わにし)から分れた春日氏(かすがし)を象徴する山です。

ひょっとすると、天武天皇は、天智天皇を、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治した八岐大蛇(赤い龍)に例えて、龍田大社を創建したのかもしれません。

私は、天武天皇は、天智天皇の兄弟という側面ばかり強調されていますが、もう一つ、別の側面があるように思います。

それは、蘇我氏を代表する天皇という側面です。

天智天皇と同じ物部氏なら、天武天皇を取り巻く蘇我氏色の説明がつきません。

皇極天皇(こうぎょくてんのう)が、舒明天皇(じょめいてんのう)の皇后になる前に、蘇我氏の血を引く用明天皇(ようめいてんのう)の孫の高向王(たかむこのおおきみ)と結婚して産んだ漢皇子(あやのおおきみ)が、天武天皇の別名だという説があります。

遣隋使の小野妹子(おののいもこ)に同行する留学生として聖徳太子が選んだとされる高向玄理(たかむこのくろまろ)という人物がいて、魏(ぎ)の曹丕(そうひ)の末裔を称する渡来系氏族とされ、漢皇子の事ではないかとも言われています。

 

私は、聖徳太子も小野妹子も高向玄理も、後から作った架空の人物で、実際は蘇我氏と同じ高句麗(赤)の王族だったと思います。

 

高向王の母が魏の曹丕(文帝)の血を引く人物だったのかもしれません。

 

それが、蘇我氏が滅亡した事で、素戔嗚尊が牛頭天王(ごずてんのう)として新羅(白)の神様という形になったものと思います。

 

赤は、丹生明神(推古天皇)の色でもあります。

そうなると、天智天皇と、天武天皇は、父の違う兄弟ということになりますが、残念ながら、日本書紀に、そのような記述はありません。

だけど、どちらが真実かは、よく検討してみる価値はあるように思います。

古事記は天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)を召しだして、編纂したとされます。しかし、完成する前に天武天皇が崩御した為に、持統天皇(じとうてんのう)と元明天皇(げんめいてんのう)の二人の女帝が引き継ぎます。

古事記が完成した時代は、藤原不比等が元明天皇の信頼も厚く、右大臣として最高権力者となっていた時代でもあり、天智天皇側に有利なように、かなりの改変があったのではないかと想像出来ます。

しかし、編纂者が天武天皇だとした方が、蘇我氏系の人達の反対も受けず、都合が良かったので、自分の名前は出さなかったのだと思います。

天武天皇の名前のもと、中身を変えたというのが妥当な推理だと思います。 そして、日本書紀が完成したのは、古事記の成立から8年後の元正天皇(げんせいてんのう)の時代で、天武天皇は崩御していましたが、まだ、長屋王など天武天皇の血を引く皇族が多くいて、蘇我氏と物部氏が対立していて天武天皇と天智天皇は兄弟という側面を強調した方がお互いにメリットがあったのかもしれません。

天照大神を最高神としたのも、おそらく天武天皇で、物部氏と蘇我氏を同等にする為に秦氏(皇極天皇)を中心持って来たのだと思われます。

天照大神が中心という形は継承しつつ、細部には藤原不比等の色が加えられているものだと思われます。

日本書紀の成立した年に藤原不比等は亡くなっています。

こちらは末社の白龍神社です。

 

皇極天皇の志那都比売神(しなつひめのかみ)を表しているものと思われます。

 

奈良県御所市(ごせし)の西柏町(さいかしちょう)にある眞龍寺(しんりゅうじ)の入口に白龍大明神を祀る神社があり、「皂莢 」(さいかち)が御神木とされます。

「皂莢 」(さいかち)は河原に自生し、枝や幹に小枝の変形した棘があるマメ科の落葉高木で、別名を「河原藤」(かわらふじ)とも呼びます。

樹液がクヌギやコナラと同様に昆虫の好適な餌となり皇極天皇の象徴である「甲」(かぶと)=「カブトムシ」を「サイカチムシ」と呼んだりします。

「皂莢」(さいかち)の豆果は赤褐色のねじれた扁平な形をしていて、これを煮ると黄色い「泡」(あわ)のサポニンが出て、「石鹸」(せっけん)として昔は用いられました。

汚れで「黄」(き)ばんだ「絹」(シルク)を真っ「白」(しろ)にする力があったわけです。

皂 」(さい)は「黄」色の「栗」(くり)や「粟」(あわ)の蘇我氏=天武天皇を表し、「絹」は秦氏で、「莢 」(かち)は「白」色の「餅」(もち)の皇極天皇を象徴するようです。

 

大国主命を祀る出雲大社の前身である「杵築」(きづき)は市杵島姫(いちきしまひめ)の「杵」(きね)で突いた「餅」を表すようで、白兎が現れる望月(もちづき)=満月を象徴するものと思われます。

 

桓武平氏良文流の「葛西氏」(かさいし)=奥州葛西氏(おうしゅうかさいし)の家紋は「三つ柏」(みつかしわ)紋とされますが、「皂莢」(さいかち)を一族の象徴として、門前に「皂莢」(さいかち)の木を植え、同志の目印とされたそうです。

 

「柏」(かしわ)は「赤」の餡(あん)の詰まった「白」いお餅(もち)で、豊受大神(とようけのおおかみ)を象徴するようです。

恵比寿さんです。

「龍田えびす」と書かれた旗が賑やかです。

 恵比寿さんは龍田明神や、白髭明神、猿田彦大神と同じ藤原鎌足を表すのかもしれません。

本来は海に捨てられた「蛇」の神様なのですが、海の神様に拾われて「龍」になって帰って来る神様です。

天智天皇を助けた藤原鎌足を意味しているのだと思います。

猿田彦大神は猿楽、翁舞の舞の神様で、庚申信仰(こうしんこう)となり、厩(うまや)の守護神として厩神(うまやがみ)、厩猿信仰(うまやざるしんこう)となります。

馬の健康を祈って厩の前で猿回しなどの猿の舞が行われました。

龍田明神が法隆寺の守護神となったのも、この辺が関係しているのだとも思われます。

三室稲荷大神と書かれています。

龍田比古命は、龍田山の神様で、龍田比売命は、龍田川の神様とされます。

生駒山脈の最南端を龍田山と称し、その一部が三室山だとされます。

しかし、地図上には龍田山は存在せず、どの山を龍田山と呼ぶのかは謎です。

聖徳太子が毘沙門天を祀ったとされる信貴山(しぎさん)かもしれませんが、私は、生駒山の全てが龍田山だったのではないかと思っています。

信貴山は、聖徳太子が物部守屋を討伐する際に毘沙門天(天武天皇)に戦勝の祈願をする為に立ち寄り、寅年、寅日、寅の刻に毘沙門天が出現したとされ、「信ずべし貴ぶべき山」として「信貴山」と命名されたと言われ、「白虎」の山とされますが、何故か、名前の付け方に違和感を覚えます。

「鴫」(シギ)という名前の水田に姿を見せる秋の渡り鳥がいますが、褐色に黒と白が混ざったような模様をしていて、あまり美しい鳥ではありません。

田んぼの害虫を食べるので、そこから付けられたか、あるいは、天智天皇の第七皇子の志貴皇子(しきのみこ)から付けられたものと思います。

また、藤原百川(ふじわらのももかわ)を祖とする藤原式家(ふじわらしきけ)も志貴皇子と関係が深く、式家(しきけ)の「式」(しき)は推古天皇と同族の磯城氏(しきし)の名前を付けたものかもしれません。

壬申の乱以降は、天武天皇の時代が続き、天智天皇系の皇子は天皇にはなれませんでした。

しかし、天武天皇の血を引く井上内親王(いのえないしんのう)を皇后にもらうことで、志貴皇子の第6子の白壁王(しらかべおう)が、光仁天皇(こうにんてんのう)として、即位することとなります。

信貴山は、元々は井上山(いのうえやま)という名称だったらしく、推古天皇を表す猪神(井上)という意味と、井上内親王の両方の意味を含んでいたのだと思われます。

しかし、藤原式家と高野新笠(たかのにいがさ)の陰謀で、井上内親王は殺され、皇族の天武天皇の血は途絶えてしまいます。

柏餅の中の赤い餡を意味します。

代わって高野新笠の子の桓武天皇(かんむてんのう)=平家の時代が始まります。

鳳凰(酉)が、白虎(西)=瓶子(へいし)に取って代わられたということです。

「酉」と「西」の違いは中に「酒」が入っているか、いないかの違いです。

 

「伊勢の平氏は素甕(すがめ)でござる」

 

瓶子(へいし)は伊勢産の出来の悪い徳利(とっくり)=推古天皇の甕(亀)になぞらえて、お酒ではなく「酢」(す)を入れる酢甕(すがめ)にしかならないとして、平忠盛(たいらのただもり)が斜視(すがめ)だった事にかけて嘲笑された時代もあったようです。

こちらが龍田川。

 

千早振る 神代も聞かず 龍田川 からくれないに 水くくるとは (在原業平朝臣)

 

竜田川が紅葉によって水を錦のように染め上げていて、神々の時代にも聞いたことがことがない美しさだという意味です。

 

散った紅葉が川に浮かぶ様子なのか、水面に映る紅葉の色なのか、解釈はいろいろあるようですが、最後の「水くくるとは」が、龍田比売(推古天皇)と掛けていて、入水した龍宮城の乙姫様を連想させます。

在原業平(ありわらのなりひら)は、天武天皇を滅ぼした桓武天皇の血筋でもあります。

風吹けば 沖つ白波 龍田山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ (伊勢物語)

 

風が吹けば沖に白波が立つという。龍田山を今夜あの方はひとりで越えてゆこうとしているという意味なのですが、「沖つ」とは、宗像三女神の一人の奥津島比売(おきつしまひめ)で、別名を古事記では多紀理毘売(たぎりひめ)で、日本書紀では田霧姫(たぎりひめ)や、田心姫(たごりひめ)と言い、豊受大神(お稲荷さん)のことです。

「白波」(しらなみ)は「白馬」(はくば)=白虎(白駒)と掛けているようです。

本来、龍田川は「滾つ赤波」(たぎつあかなみ)で、宗像三女神の一人の多岐都比売(たぎつひめ)で、「丹馬」(たんば)を意味するのですが、龍田川の名称を出さず、龍田山とすることで、皮肉っているようです。

但馬(丹馬)、丹後(丹午)も昔は、丹波(丹馬)であり、蘇我氏(推古天皇)を表す赤色というわけです。

しかし、日本料理では、「龍田」と名が付く料理は、龍田山を赤、竜田川を白に例えて、紅白に盛り付けをするようです。

「竜田揚げ」は、龍田大社(毘沙門天)の使いの鶏(鳳凰)を醤油で赤く染め、油にくくらせる料理です。

仏教を信仰し、肉食禁止令を出し、特に鶏を神様のお使いとする天武天皇が聞いたら、びっくりする料理だと思います。

この料理名を考えた人は、悪意を持っていなかったのかもしれませんが、かなり罪深いように感じます。

おいしいですから、余計に…

余談ですが、聖徳太子と、大物主命(饒速日)は、黒駒(烏駒)で表される時も多いようです。

貴船神社では、雨乞いには黒馬を奉納し、晴天祈願には白馬を奉納したとされます。

馬は大きくて場所を取るのと、高価なので、五角形の札に絵で馬を書いて奉納するようになったのが「絵馬」の始まりです。

法隆寺の絵殿の御本尊だった夢違観音(ゆめちがいかんのん)は、馬を意味するのかもしれません。

聖徳太子が黒駒と歩いた飛鳥から斑鳩への筋違道(すじたがいみち)は真北ではなく西に少しずれた左斜めの道ですが、西大寺の称徳天皇(しょうとくてんのう)を表しているのだと思います。

飛鳥の藤原京から真北に進む平城京は桓武天皇の第1皇子の平城天皇なので、称徳天皇の血を引かない形になります。

藤原氏からすると、称徳天皇がいたお陰で天武天皇を追い出す事が出来て、桓武天皇から新たなスタートが出来たという事のようです。

悪い夢が良い夢に変わったようです。

聖徳太子は、謎の多い人物です。

黒は、往生を表すようで、本当は、「生駒山」も、「往駒山」と書くようです。

天武天皇が創建した龍田大社(風)と、廣瀬大社(水)に対して、往駒大社(火)は、ずっと後に創建されたものだと思われます。

おそらく、龍田大社で祀られる赤い龍が、大物主命(饒速日)だとされないために、新たに創られた社なのかもしれません。

弘法大師空海が、狩場明神(お稲荷さん)に連れられて紀伊国に行って、土地の神様である丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったのが金剛峯寺(こんごうぶじ)だとされます。

狩場明神の使いが白い犬と、黒い犬の二匹とされるのは、大伴氏と、物部氏か、あるいは志貴皇子と、聖徳太子を表しているのかもしれません。

ここから、少し移動して、もう一つの龍田神社に行こうと思います。

着きました。

聖徳太子が創建したとされる法隆寺(ほうりゅうじ)の近くにある黒い鳥居の龍田神社です。

祟神天皇の時代に、聖徳太子が法隆寺の建設地を探していた時に、白髪の老人に化身した龍田明神が現われて、神託を得て、斑鳩の里に建立したとされ、この神社は、法隆寺の鎮守社として龍田明神を祀る目的で創建されたようです。

明治の神仏分離の際、法隆寺から離れ龍田大社の摂社となりましたが、大正11年に龍田大社より独立し、県社となったようです。

御祭神は、元々は龍田比古命と龍田比売命の龍田明神でしたが、龍田大社の摂社になった時に、天御柱命と、国御柱命に変わってしまったそうです。

龍田明神のお使いの鶏の手水舎です。

記紀による垂仁天皇の記述の中で、狭穂彦王(さほひこおう)と、狭穂姫(さほひめ)の物語があります。

その内容は、以下のようなものです。

 

垂仁天皇は、狭穂彦王(さほひこおう)の妹である狭穂姫(さほひめ)を妻とし、寵愛していました。

ある時、兄の狭穂彦王は、妹の狭穂姫に意外なことを聞きました。

 

「お前は、夫である天皇と、兄である私と、どちらを愛しているか?」

 

驚いた狭穂姫は、咄嗟に「兄上を愛しております」と答えたと言います。

その答えを聞いた狭穂彦王は、妹に謀反の計画を持ちかけ、短刀を渡し、垂仁天皇の眠っている隙をみて、暗殺することを命じます。

陰謀があることなど知る由もない垂仁天皇は、いつものように、狭穂姫(さほひめ)の膝を枕にして休んでいました。

「刺すなら、今」

天皇の首を前に、狭穂姫が短刀を振り上げます。

しかし、…

なかなか振り下ろすことが出来ません。

三度程、試みましたが、どうしても出来なくて、つらくてつらくて、ついに大粒の涙が流れ、天皇の寝顔の上に落ちてしまいます。

目を覚ました天皇は、「今、不思議な夢を見た。佐保の方から雨が降ってきて、私の顔を濡らした。気付くと、錦のような模様をした小蛇が首に巻きついていた。この夢は、いったい何を表しているのだろうか?」

狭穂姫は、もう隠し切れないと思い、兄の謀反に加担したことを打ち明けました。

話しを聞いた天皇は跳ね起き、狭穂彦王の討伐軍を起こします。

兄の身を案じた狭穂姫(さほひめ)は、兄のもとに走り、稲城の中にたて籠もります。

討伐軍は、稲城に火をかけます。

この時、狭穂姫は、天皇の子を身籠っており、火の中で出産をし、そして、生れたばかりの子を抱えて、稲城の外に出てきました。

狭穂姫を愛していた天皇は、なんとか狭穂姫を助けようとしますが、天皇に子供を預けた狭穂姫は、再び、火の中に戻って、兄と共に死ぬことを選びます。

それから、時が流れ、狭穂姫(さほひめ)の生んだ子は、誉津別命(ほむつわけのみこと)と名付けられ、大きく育ちました。

しかし、大きくなっても何故か口をききませんでした。

ある日、空を飛んでいる鵠(コウノトリ)を見て片言をつぶやいたので、天皇は、その鵠を捕まえるように命じます。

そして、但馬で捕まえることが出来ましたが、鵠を得てもまだ物を言いません。

ある夜、天皇は夢を見て、出雲大社を祀ることで、誉津別命は喋れるようになるとお告げがあり、その通りにすると、喋れるようになったとされます。

誉津別命が喋れなかったのは、出雲大社の祟りだったというわけです。

この火中出産の話は、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の話ともよく似ています。

火の中で生れたのが、火照(ほでり)、火須勢理(ほすせり)、火遠理(ほおり)の3人です。


火照(ほでり)の別名が海幸彦(蘇我氏)。

火遠理(ほおり)の別名が山幸彦(物部氏)。

火須勢理(ほすせり)は記述はありませんが、おそらく谷幸彦(秦氏)。


火遠理命(物部氏)が豊玉姫(とよたまびめ)という鰐(和珥)のお姫様と結婚して、その子供が神武天皇へと繋がっていきます。

誉津別(ほむつわけ)の場合は、よく似た名前に、誉屋別(ほむやわけ)と、誉田別(ほむたわけ)があります。

誉田別(ほむたわけ)は、ご存知、応神天皇のことで、別名を大鞆和気(おおともわけ)とも言い、大伴金村が連れてきた継体天皇(けいたいてんのう)は、応神天皇の5世の孫とされます。

誉屋別(ほむやわけ)は、古事記と、日本書紀で記述が少し違っていて、古事記では仲哀天皇と神功皇后の子供で、誉田別(ほむたわけ)の兄弟ですが、日本書紀では、仲哀天皇と、弟媛(おとひめ)の子供で、誉田別(ほむたわけ)とは異母兄弟になります。

まるで、異父兄弟の天智天皇と、天武天皇の関係とよく似ています。

私は、狭穂彦王(さほひこおう)は、天武天皇のことだと思っています。

狭穂姫(さほひめ)は、皇后の持統天皇(じとうてんのう)だと思います。

狭穂彦王と、狭穂姫は兄妹だとされますが、「天皇と私とどちらを愛しているか?」などという変な質問は、まるで恋人同士を思わせます。

持統天皇は、天智天皇の娘なので、天武天皇とは兄妹に近い関係です。

そして、その当時は珍しく、天皇としては初めて火葬された天皇でもあり、火の中で亡くなった狭穂姫を連想させます。

また、持統天皇の子供ではありませんが、弟の建皇子(たけるおうじ)が言葉を話せなかったと言い、誉津別命(ほむつわけのみこと)ともイメージが重なります。

持統天皇と、建皇子の母は、遠智娘(おちのいらつめ)と言い、蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだいしかわまろ)の娘です。

石川麻呂は、乙巳の変(いっしのへん)では、天智天皇に加担して、革命を成功させますが、とても気の弱い人物であったようです。

天智天皇は、石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)を妃にしますが、その後、石川麻呂が謀反の疑いがあるとして、粛清します。

父の石川麻呂を天智天皇に処刑された遠智娘(おちのいらつめ)が、その殺した本人の子供を産まなければならないという悲しみのあまり、狂乱した状態で健皇子を出産したと言われます。

その為、母の精神異常が皇子に影響して、健皇子は言葉を話せなくなったのではないかとも言われています。

健皇子を気の毒に思った斉明天皇(皇極天皇)は、健皇子を可愛がり、自分が崩御した際一緒に合葬せよと命じ、現在は斉明天皇陵に埋葬されているそうです。

白鳥になったとされる日本武尊(ヤマトタケル)のイメージは、この健皇子に、蘇我氏の英雄伝を被せたものだと思われます。
信貴山(しぎさん)は、神八井耳命(かむやいみみのみこと)、つまり蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだいしかわまろ)を祖とする志貴県主(しきのあがたぬし)の山という意味も含んでいるのかもしれません。

それから、狭穂彦王と違い、天武天皇の起こした壬申の乱は成功しましたが、その後、息子たちが、ことごとく謀反の罪で滅ぼされ、狭穂彦王と同じ運命を辿ります。

狭穂姫(さほひめ)持統天皇(じとうてんのう)だと思う一番の理由は、持統天皇の希望により、夫、天武天皇との夫婦合葬墓になって明日香の地に眠っているという点です。

飛鳥は蘇我氏系の墓の多いところです。

天武・持統天皇陵のすぐ側にある高松塚古墳の被葬者は謎ですが、おそらく天武天皇の皇子の誰かだろうと言われています。

ただ、被葬者の頭部が無く、四神の壁画が描かれた石棺の鳳凰の壁だけが壊されていて、謎が多い古墳です。

謀反の罪で斬首にされた被葬者の可能性もあります。

また、近くにある「鬼の俎」(おにのまないた)と、「鬼の雪隠」(おにのせっちん)と呼ばれる謎の岩も、壊された誰かの古墳の一部なのかもしれません。

本来、物部氏側の人間からすると、狭穂姫(さほひめ)は明日香には埋葬したくなかったはずです。

稲城の火の中で亡くなった狭穂姫(さほひめ)は紅葉の「秋」の女神となります。

「秋」という字は「禾」(稲)に「火」を掛ける事を表します。

「古事記」は第33代天皇の推古天皇までの歴史ですが、「日本書紀」は第41代天皇の持統天皇までの歴史になります。

父である天智天皇と、夫である天武天皇の両方の立場を知る狭穂姫(さほひめ)の歴史書と言えます。

飛鳥には、蘇我入鹿の首塚もあり、蘇我馬子の墓を暴いたと思われる石舞台古墳もあります。

そういう因縁の場所に、天武・持統天皇陵はあります。

狭穂姫(さほひめ)が好意的に書かれているのは、記紀の編纂者が、持統天皇には好意を持っていたからではないでしょうか。

「錦のような模様の蛇」とは狭穂姫のことで、龍田川を表しているように思います。

蛇は大物主命の血を引いていることの象徴だと思われます。

龍田山は赤い天武天皇、竜田川は白い天智天皇の娘である持統天皇というわけです。

沖つ白波です。

こちらは蘇鉄(そてつ)の木だそうです。

金剛流発祥の地と書かれた石碑があります。

拝殿です。

神紋は紅葉のようです。

葉が通常は七つなのに、八つに分れています。

狭穂彦王(さほひこおう)の子孫は但馬(たじま)に渡って、日下部氏(くさかべし)を称したそうです。

但馬は、黒毛和牛の但馬牛が有名な土地です。

蘇我氏は、蘇や醍醐など、畜牛にも携わっていた氏族なので関係があるのかもしれません。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、牛の頭を持つ炎帝神農(えんていしんのう)と習合させられ、医薬、農業の神として少彦名命(すくなひこなのみこと)と呼ばれるようになります。

大物主命の荒御魂でもあり、荒神(こうじん)とも言います。

桃太郎が退治した角のある鬼に習合させられたわけです。

毘沙門天が、牛頭天皇に変えられたのも、同様の理由かもしれません。

難波津に  咲くやこの花  冬ごもり  今は春べと  咲くやこの花 (王仁吉師)

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